歴史の中の「書」55
副島蒼海『積翠堂』  田宮文平

 

 

 

種 堂 翠 積
臣 

 近代書道の漢字系で、その方法論の革新と圧倒的な人脈を誇ったのは、日下部鳴鶴と西川春洞の系統である。現代の書人でもこの山脈に属さない人は少ないと言ってもよいくらいである。
 だから、書を専門に学ぶ人で、この二人の先駆者の名を知らぬ人はいない。しかし、一般社会の人にとっては現在、あまり馴染みのある存在ではないのではないだろうか。
 これに対して、中林梧竹と副島蒼海(種臣)は、門人などを採ることがなかったので、今日、書壇の人脈は存在しないが、その書の評価は一日ごとに高まっているような気がする。共に佐賀県出身のこの二人が、そのような立場に立っているのが不思議なほどである。
 中林梧竹は、清国にも渡って本格の書を学んだ専門の書人である。帰朝後は、副島蒼海の紹介で東京銀座にパトロンを得て門人を一切採らず、生涯を書作三昧に過ごした。しかし、専門家であるから近代の古典学書の方法論をもっていた人である。現在、中林梧竹が書壇的にも評価が高いのは、師風を伝承せず、この方法論がある故でもある。
 書壇的ワクを超えて今日、益々評価を高めているのが、副島蒼海である。蒼海は、鍋島藩校弘道館で漢籍を学んだ人で、外務卿として再度清国に渡っているから、彼地の書学には触れたであろうが、専門家として書を方法論的に学んだ人ではない。故に、その書の評価は、いよいよ高いが、書壇の人脈は一切存在しない。何しろ一作一面貌なのだから、書法的に追求することなどできないのである。
 わたしは、平成二十四年(二〇一二)に第二十回を迎える佐賀県書道展の審査長を第一回展から、そのほとんどを長きにわたって務めてきた。それで副島蒼海の書は、美術館博物館や老舗の料亭で数多く見ている。しかし、古物商などでは、中林梧竹の書は、真贋取り混ぜて、どこにでも飾ってあると言ってよいほどであるが、副島蒼海のものはなかなか見ることがない。たぶん、固定的な書法のイメージがないから贋物も容易にはつくりにくいということであろうか。その個性的、独創的ということが、今日の美意識では、習字的イメージを脱却して、かえって高く評価されることになるにちがいない。
 この『積翠堂』の書は、夏目漱石などが投宿したことで知られる伊豆修善寺温泉の菊屋のために揮毫したものである。黙っていては、点画がバラバラで一見しては読めないほどである。積と翠は一体となった書き方で、翠の下部の卒は草書のように崩している。積翠の込み入った結体に対し、堂の上部は意表を突くように広大の余白をつくり、下部の土は押しつぶされるように書かれている。そして、落款の「種臣」は、通常の署名というよりは、あたかも「積翠堂」の書の一部を構成しているように書かれている。
 旅館菊屋の当主も、おそらく当時の常識からこれをよい書とおもったはずはなく、偉い人の書いたものだからと大事にしてきたのではないだろうか。因みに副島蒼海は、曹洞宗で、源範頼、頼家が幽閉されたことでも知られる『修禪寺』の題額も書いているから、修善寺温泉との縁は深かったのであろう。
 ところで、副島蒼海と中林梧竹の関係には、一つの興味深いエピソードがある。
 吉田苞竹の師である黒崎研堂は、もともと酒井姓の庄内藩家老の三男であったが、戊辰戦争で黒崎家の当主が戦死したので、遺言によって黒崎家四百五十石を継承した人である。研堂は漢籍に詳しく藩校で史記などを講じた人で、武よりも文の人であったらしい。
 それで、書にも秀でた人であった。あるとき上京して副島蒼海を訪ねて揮毫を依頼すると、「わしなどが書くより今、清国から帰ったばかりの立派な青年書人がいるから、それに書かせよう。」と言った。それが、中林梧竹であった。梧竹は、書法に則った正統の書を披露したにちがいないが、それを見ると蒼海は、「そんなじゃダメだ。」と言って筆を執って書いてくれたという。
 黒崎研堂には、遺言書と共に認めた家宝としたものの目録が遺されているが、その中に何点かの副島蒼海の書がある。
 書家は、方法論なくして書を学ぶことはできない。それ故に、ときに習気も生じる。そのような意味では、副島蒼海と中林梧竹との関係は、書人にとって永遠の課題であるにちがいない。


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