歴史の中の「書」56
仲田幹一『はる風や(蕪村句)』  田宮文平

 

 

 

『はる風や』 個展 昭和43年(1968) 豊岡市仲田光成記念館蔵 

 現代の書の革新は、主として漢字系から派生した前衛書(墨象)によって象徴的に語られることが多い。しかし、わが国独自のかな書の変貌もまた、それに劣らないほどである。
 かな書の源流は、言うまでもなく平安貴族による古筆にまで溯る。それらの多くは、机上で書かれた和歌や物語の写本である。それ故に文字は小さく、貴族的な雅の洗練された美意識を湛えている。
 それら国文の書も時代の美意識の変遷や、居住する建築空間の変貌によって刻々と変わってくるのである。
 鎌倉室町時代は、武家が主導した時代である。平安の残照は依然として強いが、熊野懐紙や書状の書など、すでに雅一辺倒ではない。
 これが、安土桃山時代から江戸時代にかけては、本阿弥光悦や近衛信尹等が出現し、和様の書も新しい時代を迎える。近衛信尹の巨大な屏風に書いた大字かなは、それを飾るにふさわしい建築空間と、用紙なども大きく漉かれるようになったことと無縁ではない。
 近代の書は、漢字もかなも一度は復古が唱えられて、かなも上代様の見直しから出発する。しかし、中国から次々と舶載される漢字系に対して、かな系の基本となる古筆の多くは、宮家や旧大名家等に秘蔵されて、一般の学書者は容易に見ることができなかった。
 これが、美術館等に展示され、たとえ印刷の複製であっても机上に備えることができるようになったのは第二次大戦後の大衆社会に至ってからであった。
 かなの現代化は、ここが出発点となったと言っても過言ではない。加えて、建築空間の変貌は、床の間的発想を転換し、かな書も刻々と額装化へとすすむのである。また、作品の場も美術館やギャラリーとなり、否や応もなく西欧的なアートの感覚を求められるようになる。
 この「はる風や堤ながうして家遠し」の蕪村句を書いた仲田幹一(百歳以後は「光成」)は、大正時代に上京して学習院に勤めたことから、近代かなの革新者である尾上柴舟に出会い、古筆による学書をはじめるようになる。学習院という環境が、たぶん、一般の人より古筆に恵まれる機会が多かったにちがいない。それで、昭和戦前期までに、ほぼ古筆体系の基本を身につけることができたのである。
 そのうえで、第二次大戦後の美意識の変貌に、どのように対応するのか、その点で仲田幹一がいち早く注目したのが、藤原佐理の離洛帖や国申文帖等の書状であった。
 美術館やギャラリーに発表されるかな書も当初は巻子や帖であったが、次第に額装化がすすみ大型化する。それに対応するには、平安古筆のシンプルさだけでは、いかにも弱い。その点、佐理の書状は漢字の草書体で、書線にもシャープで強靱なものがある。しかし、それをかな作品に採り入れるには幾多の試行錯誤があったにちがいない。
 この藤原佐理に基盤を置く仲田幹一のかな書は、以後、一〇四歳の長寿の生涯を支配する美意識となったのである。
 それにしても昭和四十年(一九六五)の第十七回毎日書道展に発表した「ほととぎす二は啼く雨ごの月よかな」の太魯句と、ここに掲出した「はる風や堤ながうして家遠し」の蕪村句の二作は、生涯の多くの書のなかで、まったく系列を異にするごとくで、現代かなのモニュメンタルな作品として刻まれている。
 生涯を通じて料紙(和紙)を使用することの多かった仲田幹一の書の中で、この二作は画仙の全紙を横形式に使って、墨も他の作が濃墨基調なのに対し、青墨あるいは淡墨で書かれている。それ故に後世への保存上の問題があるが、幸いなことに出身地の兵庫県竹野(現豊岡市竹野)には、この『はる風や』が、原寸大に石刻された書碑が建てられている。
 『はる風や』は、右下からあたかも波がうねるように書きはじめられ、左上部に「家遠し」と書かれた作は、かな書の歴史上にかつて存在しない発想で大きな衝撃を与えて、「仲田流」とも喧伝された。しかし、この大胆な様式の書は、以後、長い生涯の間に二度と書かれることがなかったのである。
 その真実の内奥は分からないが、下世話に「男は一度勝買する」などという。そういう意味では書線自体に何ら問題はないが、この様式だけがデザイン的に氾濫しては意味がないと考えたからではないだろうか。


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