歴史の中の「書」57
近藤摂南『安西冬衛詩』  田宮文平

 

 

 

安西冬衛詩       34×137cm

 近藤摂南が、昭和四十一年(一九六六)に、みずから主宰する第四回新書派協会展に発表した『安西冬衛詩(てふてふ)』は、漢字かな交じりの国文の書(近代詩文書)にエポックをなした作である。それ以前にも、それ以後にも近藤摂南は二度とはこのようなスタイルの書をかいてはいない。それだけ、この書が独自の発想に支えられて誕生したと言えるであろう。
 近藤摂南は、旧制中学時代に当時、難関をもって鳴る東方書道会展に伝橘逸勢筆の伊都内親王願文を全臨して出品し、行き成り特選を受賞して衝撃を与えた。いかに実力主義を標榜する東方書道会展にあっても、大のおとなに混じって中学生が特選になるなどということは異例のことであったのであろう。
 それで中学時代の恩師は、「自分にはもう教えることがない」と、みずからが師事する炭山南木に紹介するのである。南木は、京都市立美術学校絵画科を出た人であるが、大正十三年(一九二四)、川谷尚亭に出会って書に転じた。近藤摂南は、そこで正統な書学の基礎を学んだにちがいない。
 しかし、学徒動員から帰って戦後の開放的な時代を迎えると、近藤摂南の才気は、ともすれば保守的な関西書(壇)には収まり切れなかった。それで、昭和の書の天才といわれた関東の津金 仙のもとへと走るのである。そして、昭和二十九年(一九五四)の第十回日展に出品した『杜甫詩』で特選に輝いた。この新感覚の書は、新世代の人たちに大いなる憧憬のおもいを抱かせ、これを機に日展に挑戦してみようという人たちまで現われたのである。
 近藤摂南は、漢字書で一時代を築くと、さらに現代詩や、漢字の少字数を造形する現代感覚の書へ一歩をすすめる。そして、これに賛同する新世代書人の動向を敏感に受けとめると、昭和三十一年(一九五六)には、新書派協会を結成する。北川冬彦等の詩人たちとも交流し、現代の生きたことばを積極的に書表現に採り入れるのである。
 この『安西冬衛詩(てふてふ)』の書が、いかにして誕生したかについては、書者自身が制作所感を認めている。「その頃、私は第四回の新書派協会展に出品する作品の構想を日夜考えていたのですが、そんな或る日の朝、寝床で竿縁天井をぼんやり眺めておりました。御存知のように、竿縁天井は画仙紙半切の幅ぐらいで縁が並列しています。その半切大の大きさをじっとながめていますと、たれとはなしにそれが表現面積に思われてくるのでした。横の細長いこの形式―何とか作品になりそうな予感がする。すると不思議に、細長い竿縁天井の一区画の中をスウーと何かが飛んで行くような気がするではありませんか。」(傍点田宮)
 この幻影が、やがて七、八年前、三重の大島へ浜木綿を見るためにポンポン船に乗って大海に出たとき、船の近くを一匹の小さな蝶が、ひょろひょろひょろと飛んでいたことへと結びつく。そして、遂に安西冬衛の詩の「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」という詩を想い出させる。その興奮状態から書齋に飛びこみ、一気に書きあげたのが、この作である。
 現在の公募書展の書は、システム上からも、とかく巧拙で評価されがちであるが、この近藤摂南の作には、そうしたことのカケラもない。もちろん、長年にわたって学んできた漢魏晋唐、そのうえでの陳鴻寿や池大雅等の書法の土台は先行して存在するのだが、何よりも書者の心を動かしたのは ″幻影″であろう。発想の根幹にそのようなものが存在しなければ、人をして感動を与えることなどできないのではないだろうか。
 ″幻影″は、やがて昔、ポンポン船に乗って浜木綿を見に行ったときの海上の一匹の蝶々を想い出させ、さらには安西冬衛の詩へと辿りつく。この際、「てふてふ」という日本語の美しい文字のイメージがあって、はじめてこの書が発想されるのであろう。それは断じて「蝶々」でも、ましてや「ちょうちょう」ではありえない。
 「てふてふ」のやゝ頼りなげな淡墨のタッチが、やがて「一匹韃靼海峡」の劇的な造形を生み出す。
 「書」であざやかに詩情を醸し出した稀有とも言える作品である。


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