歴史の中の「書」58
小坂奇石『一悟寂爲樂』  田宮文平

 

 

 

一悟寂爲樂 1966年 日展出品 驥山館蔵 

 

 第二次大戦後、昭和二十年代を通じて、書壇ではともかく社会的に専らもてたのは、現代系の書である。当時、書は、ときに守旧の遺物のごとくおもわれて伝統書は社会の前面に立てなかった。加えて、現代系が幅を利かせたのは、世界の美術の潮流が抽象表現主義へと傾き、これと前衛書(墨象)との連携が生じたことも有利に働いた。
 こんな戦後の社会状況を背景に伝統系とおもわれる西川寧も、ときには『黙然而笑』のような造形性の強い書をかいたりした。
 そんな中で一貫して姿勢を崩さなかった小坂奇石は、稀有の書人と言えるかもしれない。人も書も世の中には、一切妥協しなかった人である。
 小坂奇石が創刊した『書源』という月刊雑誌がある。現在は高弟の江口大象が主幹となってつづいているが、当時、編集担当だった江口大象が、あまりの参考手本の高踏かつ難解さで一向に部数が増えないので、「もう少しお手本を易しく書いていただけませんか。」とお伺いを立てると、「そんな必要はない!」と一喝されたという。
 こんなことは、ほんの一例にすぎないが、ひたすら直筆蔵鋒を主張して妥協しなかった。大学時代に学んだ横山煌平なども、関戸本古今和歌集育ちだから俯仰をともなって書いていくと、「こんななよなよしたものはダメだ」と可をもらったとか。
 そんな伝統系の小坂奇石にも時代が変わると光が当たるようになる。昭和三十二年(一九五七)一月からはじまった朝日新聞社主催の現代書道二十人展(東京上野松坂屋ほか)は、現代系オンリーから伝統系が画期的に巻き返しをした書展として、戦後書史に位置づけられているが、ここに小坂奇石は、第一回展から選ばれるのである。このとき発表した小坂奇石『高青邱・牀屏山水圖歌』の六曲屏風は、伝統系の書人として面目躍如とした感があった。王羲之、顔真 、米慳等を貫く正統の書として揺るぎなく、生涯の代表作の一つともなったのである。
 小坂奇石は、昭和七年(一九三二)に創設された東方書道会の創立同人である黒木拝石に学んだ。東方には日下部鳴鶴を信奉する伝統系の人が多く集まったが、その中でも黒木拝石は極めてオーソドックスな思想の持ち主であった。黒木、小坂師弟ともに ″石″が号につくのは、奇石に出会えば厚く拝礼して石とまで称された米慳に因むもので、当然、その書にも傾倒することが強かったのである。
 小坂奇石の書は、初学の人たちには極めて難解であったが、玄人筋には、そのテクニシャン振りに熱烈に憧れる人が少なくなかった。奇石その人は決して技巧を弄するタイプの書人ではなかったのだが、燻し銀のようにストイックな筆致が、逆にたまらない魅力であったのであろう。小坂奇石の本領は、俊抜剛断の直筆蔵鋒であるが、その一方では、「大事なことは蔵鋒ができれば側筆もよくなるということだよ。」とも言っている。それでなければ、顔真 はともかく、王羲之を追求することなどできないというわけである。
 その小坂奇石が晩年、書人の職業病ともいうべき書痙を病む。これは習錬に習錬を重ねた人ほどかかるというある種の神経症であるが、筆をもつと手にふるえがくる。これが神経症であるゆえんは、万年筆ではふるえないし、毛筆も左手なら大丈夫ということからも明らかであろう。それで書人は精神的に苦しむのである。
 何時からとは厳密には特定できないが、小坂奇石は、晩年、剛毛筆を用いて禅林墨蹟のような大きめの文字を書くようになる。たぶん、ふるえを押えつけるように剛毛でしっかりと書いたにちがいない。
 手腕が多少とも不自由になれば、意先筆後の傾向が深まるであろう。そうでなくとも精神的境地の書を目指す人の仕事は一層、それに拍車がかかる。
 この昭和四十一年(一九六六)の日展に発表した『一悟寂爲樂』(驥山館蔵)は、その転換期の走りの作ではないだろうか。そして、このような作書が暫くつづくが、最晩年の平成元年(一九八九)の米寿書展(大阪a島屋)では書痙は直っていたかにも見える。そう考えると、書作は実に繊細かつ微妙なものとつくづくとおもうのである。


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