歴史の中の「書」59
芹沢けい介『春夏秋冬屏風』  田宮文平

 

 

 

『布文字春夏秋冬屏風』1965年 宗廣コレクション 

 

 この「歴史の中の書」の連載に型染の芹沢けい介の作を採りあげることには異和感をもたれる方もいるにちがいない。たしかに芹沢の文字は、型染のデザインであって毛筆で書かれたものではない。型染としては、すでに人間国宝として評価が確立しているのだから、いまさら書法の面から検証することもないようにもおもう人もいることであろう。
 しかし、ここに掲載した『布文字春夏秋冬屏風』のような文字をみると、わたしは書における筆順や筆触の美意識を感じざるを得ないのである。書の文字には、単に空間性のみならず時間性が内在する。デザインの文字には空間性はあっても、かならずしも時間性は存在しない。その点からも芹沢鬻介の文字が、書法的な面からも検証されるべきだと、わたしはおもう。
 芹沢鬻介が、図案の下絵を毛筆で書いている写真を見ると懸腕直筆である。何時もそうなのかどうかは分からないが、この一事をとってみても、芹沢の仕事に毛筆の美意識が働いていることは間違いない。
 芹沢けい介のコレクションとして著名な宗廣陽介氏によれば、「芹沢先生宅を何度も訪問していた友人から聞いた話ですが―ある時、先生が岐阜出身の熊谷守一画伯が90何歳かで書かれた扁額を見られ、『こういう字を書ける人が居るから困るんだよなあ』と言われていたそうです。」という証言もある。(宗廣陽介「芹沢作品収集の思い出」、宗廣コレクション『芹沢けい介展』図録、中日新聞社刊、二〇一一年)。
 こういう事実からしても、芹沢けい介の文字が単にデザインとして成立したとはおもわれず、おそらくは幼少期からの毛筆に対する素養から生まれたと考えるべきであろう。
 芹沢けい介の型染の文字に共通するのは、この『春夏秋冬』にしても、『丸紋以呂波屏風』等にしても、一貫して共通するのは飛白体に加えて筆順が明確であることである。筆順は、線が交差するところを目で追っていけば明らかであろう。『春夏秋冬』がカラーで掲載していないのが残念であるが、濃淡の変化でそれを見ていただけるかとおもう。
 一方、一見ヘラで書いたような飛白体の書法は、どこから発想したのであろうか。
 「飛白」は、東晋の羊欣の書いた『古来能書人名』の中の「飛白はもと宮殿の題額で八分の軽妙なもの」というのが初出だという。中国では古来、唐太宗の晋司銘の題額や、則天武后の昇仙太子碑の題額等がよく知られている。わが国では、弘法大師が密教の秘法として真言七祖像賛や十如是として伝えている。それで飛白と言えば即、空海ということになるが、時代がくだって近衛家熙なども書法として試みており、現代では、比田井南谷等が、美術としての書として造形化している。
 一見、ヘラ、あるいは平筆で書けば容易にあのような字形になりそうであるが、現代の書人では高橋蒼石など、普通の毛筆で書くのだから、単純にヘラ、平筆とは決めきれないであろう。
 さて、芹沢けい介は、このような書道史上の例を研究して、みずからの文字のスタイルを創出したのであろうか。その点に関しては断定的なことは言えないが、通常、毛筆の素養としては飛白体など学ぶことはないのだから、やはり疑問がのこる。
 あれこれ考えているうちに、ふと気がついたのは、芹沢鬻介に『梵字愛染明王』の作があることである。梵字ならば、卒塔婆の頭書にも書かれるのだから、子供のうちから見なれたものであったにちがいない。
 芹沢けい介の文字のスタイルが、平かなでは分かりにくいが、漢字で見れば、いずれも行草体である。梵字の連想からは、それが自然というものであろう。
 芹沢けい介は、もともと東京高等工業学校(現東京工業大学)図案科に学んだ人である。当初は、近所の若い女性を集めて「このはなの会」などを主宰していたが、柳宗悦らの民芸館で沖縄の紅型風呂敷を見て劇的な変化を遂げる。文字に関しても前記で検証したように何らかの契機があったにちがいない。
 いずれにしろ、わが国には書法という人間の美意識の根幹をなす文化的風土が存在したからこそ、芹沢けい介の文字のスタイルも生まれ得たとおもうのである。


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