歴史の中の「書」60
松井如流『丹 愚』  田宮文平

 

 

 

丹 愚  日展 昭和62年(1987)

秋田県立近代美術館蔵 

 松井如流は、日本芸術院賞を受賞した書人であり、第二次大戦後の書を方向づけた『書品』誌を西川寧と共同編集した書学者でもある。また、短歌を橋田東聲に師事して、戦後その結社である覇王樹社を引き受けて主宰した歌人でもある。
 書を吉田苞竹に師事したのが大正十二年(一九二三)、歌を橋田東聲に就いたのが大正十四年(一九二五)である。書をはじめた動機については、「大正十二年の関東大震災に遭遇してつくづく考えてみると、財産などの物質的なものは如何にも無力なもので、どうしても精神的なものというか、少しでもいい字が書けるようになったら、その方が幸福かしらんと思って、書道をやってみようという気になった。」と語る(松井如流著『練馬草堂雑筆(書話集)』、「書を志した頃」、昭和30年刊)。東日本大震災に遭遇したわたしたちにとって実に生々しい実感がある。
 松井如流が、吉田苞竹に入門したころ、苞竹師は、書道史を縦断する『碑帖大觀』(全50集)の創刊を期していて、松井如流は文も立つことから、これを手伝うことになった。その結果、単に書法を学ぶだけでなく、書道史全般に通ずるようにもなるのである。のちの書学者、書道史家の原点は、ここにあると言ってもよい。
 吉田苞竹の秀麗な書に憧れて入門し、戦前の東方書道会展等で着々と書人としての地位を築いていった松井如流であるが、昭和八年(一九三三)の東方展に発表した『臨張遷碑』は、いろいろの意味で、その後の松井如流の書を考えるうえで転機となった作である。漢代の隷書と言えば、極めて形の整った曹全碑などが典型としておもい浮かぶが、張遷碑は、それとは対照的に字形も整わない古朴の隷書である。当時、屈指の目利きと言われた河井懿廬は、この『臨張遷碑』の書を見て松井如流の書の本質は、従来の秀美な行草書よりも張遷碑の内含するような古朴さにあるのではないかと指摘した。
 こうしたことは、松井如流自身も徐々に自覚して、「書道展の作品を見るに大抵の人は自分の先生の型か或いは古への型をそのまま模して少しも抜けていないものが多いのである。正直な事を申せば、吾々はもっと我儘に自分の気持をもりあげたもの即ち古人の型に捉われぬものを書いてみたいのである。いわば主観的な作品を作りたい。」と述べる(松井如流著『書論と書話』、昭和11年刊)。そして主宰する朝聞書展の出品者には、「たとえ下手でも自己のあらわれたものを出してほしい。」とも求める。
 昭和戦前期にすでにこうした考えに到達していた松井如流の書は、戦後の開放的な空気のなかでは、いよいよ本領を発揮する。昭和二十年代から三十年代にかけては、まだ、隷書など本格的に書く人の少ないなか ″漢隷の作家″などと持て囃された。新出土の木簡などにいち早く注目し、漢隷にアレンジして人間的な温もりのある書を発表し人気を博した。
 さらに昭和三十年代に入ると、少字数による大字の造形書を多く手掛けるようになる。漢学が衰退し、漢詩漢文の書が読めなくなったことへの対応と、 ″美術としての書″として現代空間を強く意識したものであった。この流れのなかで、毎日書道展が、昭和三十六年(一九六一)に「少字数書部」(のち一字書部、大字書部)を創設すると手島右卿と共にこれを積極的に推進する。『永』(東方展、昭和37年)、『散』(毎日展、昭和41年、『古』(毎日展、昭和43年)、『思無邪』(日展、昭和44年)、『沙上鷺』(東京書道展、昭和45年)、『造』(東方展、昭和46年)等は、この時期の代表作品である。
 現代書人として絶好調をつづけるかに見えた昭和五十四年(一九七九)六月、突然、脳血栓が襲う。面会謝絶で再起不能とも言われた。山梨県の石和温泉で懸命のリハビリがつづくが、右腕は重症でも言語機能は健全で歌をつくることのできたのは幸いであった。
 昭和五十六年(一九八一)四月には、再起を期して傘寿余韻小品展を銀座で開いた。しかし、右腕は元のようには動かない。やがて動かないならば動かないなりにという ″あるがまま″の境地に至る。そして、『丹愚』(日展、昭和62年)をはじめとする最晩年の実存的な傑作が生まれるのである。


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