歴史の中の「書」連載を終わって(上)
『書は万人のものであった』  田宮文平

 

 

 

著者近影 

 「歴史の中の書」は、『全日本美術新聞』紙上に平成十九年(二〇〇七)八月十日号から平成二十四年(二〇一二)十月十日号まで、五年間、計六十回にわたって連載したものである。
 毎回、各一点ずつ採りあげた書は、江戸後期から現代までであるが、その内容は従来の書道出版物とは著しく異なっている。いわゆる専門書家と見倣す人が約半分で、そのほかは政治家、画家、彫刻家、工芸家、歌人、俳人、華道家等々、多方面にわたっている。
 それが許されたのは、『全日本美術新聞』が、書の専門紙でなく多様な読者層を持っていたことも一つの理由であるが、最大の理由は、少なくとも昭和戦前期までの教養階級にとって毛筆は、いまだ主要な筆記具であったことである。すなわち、「書は万人のもの」であった。
 近代の書道史では、それが専門書であればあるほど、その記述は、明治期の日下部鳴鶴、中林梧竹、西川春洞等にはじまり、大正期から昭和期、平成期に至るまで、その系譜で語られることが多い。もともと東アジアでは、中国伝来の伝統をうけて「書画同源」といわれてきたものが、明治開国以来、西欧のアーティストの概念の影響をうけて書家も専門職として位置づけられるようになったからである。
 そういうわけで専門書家の系譜を主体に語られる近代書道史も、それはそれで存在理由があるわけであるが、毛筆が主要な筆記具であった時代ほど、専門書家以外にも数多くの能筆の人が存在したわけで、それらの人たちを含めて近代の書道史を再検証しなければならないというのが、早くからわたしの考えたことであった。
 この連載を江戸後期からはじめたのは、それ以前に比べて書家像が徐々に構成されてきたと考えたからである。貫名菘翁や近衛家熈は、単なる書家とは言えないが、その先駆をなしたと考えても無理がない。それ以前の書道史では、今日でこそ、書の名手として位置づけられている人でも、王羲之は、いわば東晋の宰相、顔真卿は将軍、空海は宗教家、藤原行成は公家という具合に本来は別途に職責をもった人たちである。それが、毛筆の時代には、名書を数多く遺した故に書道史上で高く評価されるようになったのである。この人たちは、自分が能筆であることは意識していたかも知れないが、専門書家になろうとは考えたこともないであろう。
 また、この連載の時期は、現在のコンピュータ時代の到来を考えるとき、いわばその前史として重要な時代である。毛筆主体から万年筆、エンピツ、ボールペン等へと筆記具が多様化するなかで、毛筆の実用上の役割が徐々に奪われる時期に相当する。そして、コンピュータの登場は、遂に毛筆の実用性を完膚無きまでに否定してしまうのである。おそらく後世の歴史家は、これを「手書き文字」から「機械文字」への分岐点と位置づけるのではないだろうか。
 この社会現象は、好むと好まざるとに関わらず止めることはできないであろう。これからは、専門書家以外に毛筆を巧みに熟す人はほとんど存在しなくなるにちがいない。それは、少々大げさに言えば、わが国の文化、芸術の基盤を劇的に変質させてしまうであろう。
 近代のわが国の絵画が、日本画、洋画を問わず独自性をもっていたのは、その根底に書(毛筆)の教養があったからである。中川一政や梅原龍三郎、熊谷守一、棟方志功の仕事は、それなしに考えることができない。芹沢鬻介の文字のデザインは、ほとんど行書、草書に負っている。高村光太郎の詩や、清水比庵の歌も毛筆で書かれることによって活字とは異なる生命を胚胎する。
 このように考えると、中国伝来の詩書画一体の人間としての基本が大きく変質してしまうようにおもうのである。もちろん、コンピュータの時代には、文化、芸術にも新たな風景が誕生することであろう。それが、すでに止めることのできない社会現状であるとすれば、それに希望を托する以外にないのである。
 しかし、毛筆の実用性が断たれる直前ともいうべきこの約百数十年の間に、単に専門書家のみならず、多くの階層から毛筆による文化、芸術が、実は歴史上にも稀れなほど多彩に花開いたことを検証することは、コンピュータ時代における人間存在を考えるうえでも極めて意義のあることをおもうのである。
 すなわち、この時代は「書は万人のもの」であり、それが文化、芸術はもちろんのこと社会全般にまで影響を及ぼした豊饒の時代であったのである。
 この連載で採りあげた書は、いずれもそれを象徴するものであるが、一般家庭でも床の間があれば、四季折々の書画を掛け替えたものである。それが、たとえ、円山応挙の贋物であったとしても、そこで養われる感性は、人間存在の根幹である感情を支配してきたのである。毛筆は、そうした日本人の四季感とも一体となってきた。
 そうした意味からも「書が万人のもの」であった時代が、決して回顧的なものとしてではなく、これからのコンピュータ時代を考えるうえでも極めて前向きにとらえられるべきというのが、この連載の趣旨であり、わたしの考えでもある。
 専門書家以外の書については、六十回というワクでは、なお、採りあげられなかったものが数々ある。それらを含めて近代の書道史が書きかえられる機縁となることを切に願わざるを得ない。


歴史の中の書indx