歴史の中の「書」連載を終わって(下)
『日本の書の特質』  田宮文平

 

 

著者近影 

 日常、空気の存在のようにほとんど意識されていないとおもうが、書文化圏で漢字以外の文字を書いて、千年以上もの歴史のある国は日本以外にはない。
 日本のほかにお隣の韓国には、ハングル書があって現在はなかなか盛んである。ハングル文字は、今から七百年近く前に世宗皇帝の時代に考案されたが一般には普及せず、第二次大戦以後、国語の文字となって急速に普及したものである。韓国の歴史は、名にし負う漢字文化である。ヤンバンという指導階級は、これを自由に熟したのである。これに対し、世宗皇帝は、女性や一般大衆にも、日本のかな文字のように文字を持たせようとしたのではないだろうか。
 ハングル文字は、なかなか合理的にできているようであるが、書法の面では、平かな、片カナのように中国の書法を継承していない。それで、いろいろ人工的に工夫することになるが、デザイン性には優れていて隷書体や現代書には適性があるようである。
 こんなわけで国際コンクールの審査に招かれると、漢字書以外の作は、日本と韓国にしかなく、ともすれば孤立する。しかし、これが、日本の書の最大の特色でもあるのだから、これを自覚する以外にないのである。というより日本の書の特色として大いにアピールしなければならない点でもある。
 わが国は、文字を持たなかったから漢字を移入することから文字の歴史、すなわち、書の歴史もはじまったわけである。
 当初は、文字の表記も発音も中国に準じたものとおもわれる。そのうちに中国の歴史書に「卑弥呼」のように日本のことを音表記していることに気がつき、次第に漢字の音を日本語に流用するようになったのである。万葉仮名は、まさにその例であろう。
 そのうちに漢字の草書の崩しから平かなを、楷書の一部をとって片カナを考案する。これも当初は、筆記の簡略化から生まれたものであろう。
 かくして、日本での言語の表記は、
 漢文(音読み)
 漢文(読み下し)
 かな
 漢字かな交じり
と、極めて多様に展開するようになった。
 書は、〈文字のかたち〉と〈ことばの意味〉を同時に伝えるものであるから、毛筆の時代には、文字の多様な表記は、書としての多様性を生じることにもなったのである。
 特に表意文字としての漢字と、表音文字としての平かな、片カナを混合して用いることを考案したのは、世界の言語の中でも稀有のことではないだろうか。日本語特有のニュアンスや、現代においては氾濫する外来のカタカナ語の表記に、この国語の多様性がどれほど役に立っているか知れない。
 中国で簡体字(簡化字)を考案せざるを得なかったのは、はじめて聞く外来語を正字(繁体字)で表記するとすれば、大変な労力を要したからである。それにしてもなお、片カナの利便性には及ばないことであろう。
 日本語を表意文字の漢字と、表音文字のかなとを混合して書くことは、日本の書の表現に多大の影響を与えてきたのである。
 漢字は表意文字として独立した意味をもつから行頭、行末をぴたりと揃えて書いても何ら問題がない。しかし、表音文字としてのかなは、一字では基本的に語を形成することができない。その意味では、漢字の具象化に対して、かなは本来的に抽象性の存在であると言える。「さくら」にしても「もののあはれ」にしても、漢語のように行頭、行末を強制的に揃えようとすれば、語は至るところでぶつ切り状態になってしまう。
 これを逆手にとって美の空間をつくろうとしたのが、平安古筆における散布(散らし書き)である。純粋な言語表記ならば、行を整えて書くことの方が合理的であろう。それを、かな文字の抽象性を生かして料紙と共に美的空間を創造したのが、散布(散らし書き)である。漢語では、とんでもないところに一字が飛んで書かれるなどということは表意文字の性格からしてもありえないことであろう。
 このように多様化した日本語の表記も中世に至ると日常的には、漢字かな交じりが普及する。ところが、書においては中国文化の影響力から唐様と和様が強固に存在し、漢字書と、かな書とに二分されて長くつづくのである。漢字かな交じりの書は、なかなか、芸術的に評価されることが少ないのである。
 近代に至っても書の復興は、漢字系は清朝書学の移入により、かな系は上代様の再興によったから、現在に至っても漢字系とかな系に分かれ、漢字かな交じりの国文を書く近代詩文書や調和体はなお、傍流的な存在となっているのである。
 しかし、近代でも文学者たちは、毛筆の時代であったから、みずからの詩文を書けば、正岡子規にしても高村光太郎にしても、立派な書表現となったのである。 これを明治以降も、西欧の概念から書家も専門のアーティストと位置づけ、書道史上に正当に評価してこなかったのである。
 わたしが、このたびの連載において、あえて書家以外の作を半分近くも採りあげたのは、日本の書の特質を真に理解するには、これを避けては通れないと考えたからである。
 このような考えは、いまだ、書道界的には少数派かもしれない。しかし、これが正当に評価されるようになれば、書展の状況も大きく変わるにちがいないとおもう次第である。

                                      (了)


[田宮文平] 一九三七年(昭和一二年)東京生まれ。大東文化大学中国文学科中退。美術書などの編集者を経て、近代・現代の書学、書道史、書評論を手がける。主な著書に『現代の書の検証』(芸術新聞社)、『現代書家の素顔』(全日本美術新聞社)ほか、多数。


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