水墨画考2  畑佐 祝融(日本文人画府理事長・合同水墨議長)
水墨画と呼ぶ理由 

〈1〉文字の意味2

 江戸時代から明治に至るまで、大和絵を中心とする京絵が強大な勢力をもっていたら、我々はいま日本絵と呼んでいるだろう。
 画家・画伯・画聖・画廊・画室・名画という文字や言葉は(画)にあっても、(絵)にはない。なぜかといえば、墨で描かれた画こそ、漢字文化圏に共通した東洋思想によって、独自に発展した精神絵画の粋である、との認識があるからだ。
 中国・朝鮮半島の国々では墨の画こそ国の文化との認識から、それぞれ国画を中国画・韓国画・朝鮮画と称している。しかし、1990年頃から中国では中国画という名称は避けるようになったと聞いている。
絵画という言葉は、色も墨も版画も含む総合的平面美術作品に使用できる言葉である。古くは中国唐代の張彦遠の著作とされる『歴代名画記』の「巻第一」に絵画という文字の使用例がある。しかし、歴代名画記の成立に疑問な点があることから、台湾で出版された画論集成『山水画論』(.賢等著・1975年・芸術図書公司刊)ではこの部分を収録していない。
 『山水画論』は、歴史的な文献で資料価値が認められた中国画論のうち、南北朝期から明代末期までに表れた約50巻の文献を収録したものである。歴代の識者が文献価値に考証を加えており、学会公認の文献集となっている。
 重大なことは、この『山水画論』全篇の中に、「絵画」という文字用例が存在していないのである。清代中期に著述された『芥子園画伝・初集』(王安節著・1701年刊)には、絵画という文字用例が現在と同じ意味で使われている。
 このことから、『歴代名画記』の「絵画」という文字は、後世の偽託として加筆された熟語であろうと私は考えている。加筆された時期は、前述の理由から清代に入ってからであろうと思う。
 この理由から、私が所持する三種類の漢和辞典では、共に「絵画」という項目が存在していないのだと思う。しかし、近年の日本や中国では、ごく普通に一般的な熟語として「絵画」という文字用例は認知され使用されている。もはや熟語として認めるべきではないだろうか?
 ちなみに、『周礼』には「絵画之事後素功。」という一文があるが、古文の時代であるため、絵画という文字の意味自体が特定できない。しかし今日使われる絵画とは意味が違っていたことは明白である。
 
 漢字用例として考えれば、墨画とは意味の重複した文字であるため通常は用いてこなかった。しかし、使用しても誤りとはいえない。最近の中国では、北京を中心として墨一色の画を表す言葉に墨画という表現を使い始めたと聞く。
 元来水墨画には淡彩画も含まれ、墨一色の画を限定して呼ぶ名称がなかった。墨という意味が重複するが、古くから使われた画という文字に墨という文字を加えた「墨画」なら、墨一色の意味が強調され、かつ用例上も誤りとはいえない。
 ただし、墨画という以上、水墨画との用例上の違いを明確にする必要があろう。思想性に基づいた用例としての水墨画と、墨一色という材料の意味に限定した墨画では、当然用例の違いを明確にしなければならないと思う。 
 墨絵とは、相反する文字の羅列であるため、極めて危険な使い方といわねばならない。なぜなら、他にも用例が存在するが、一文字づつ互いに相反する漢字の二文字熟語では、下の文字は上の文字を強める意味に使われる事があるからである。しかし、墨絵とは熟語ではなく単なる連語となっている。連語の場合は文字通りの意味となる。 
 墨絵という言語の使用上の意味は「墨だけで描いた画」との内容であろうと思う。だとすると、漢字の意味において使用者は間違いをおかしていると思う。
 近年、日本で新たな造語として使われている墨彩画という文字も、無理のある使用方法だと思っている。墨彩という言葉は、歴史上の使用例では「墨に五彩あり」の意味で使われてきた。使用者が考えているような淡彩水墨、もしくは彩色墨画との意味は出てこない。
 文字数を省略しても意味が通じるためには、それなりの約束事がある。なんでも省略して良いと言うものではない。
 最近の中国では、淡彩墨画もしくは彩色墨画の意味として、省略語に「彩墨画」という言葉を使い始めた。これは過去に存在しなかった新しい用語であるが、墨の彩どり=墨に五彩ありの意味にはならない。しかし、省略語として的確かどうかは少し時間をかけて考えてもいいように思う。
 むろん墨絵・墨彩画という漢字用例は、漢字文化圏の国では日本以外存在していないと思う。他国では水墨という正規の言語が存在しているのだから。
 作家が安易に漢字を並べて造語したのなら、漢字本来の意味が狂い社会に混乱をひきおこしてしまう。使用している当人たちは、文化に対する責任の重さを理解しているのであろうか。
 歴史的にみれば、墨一色の画はなんと呼ばれてきたのか?唐から明末までは多くの場合、単に画と呼ばれてきたと思う。人物を描けば人物画であり、山を描けば山水画であり、花を描けば花鳥画であった。そしてこれらの作品に色彩が含まれていても、墨色が中心ならやはり画と呼ばれてきた。
 江戸中期、中国から「水暈墨章之画」なる言葉が日本に伝わる。田能村竹田の文章にも引用されていたと思う。江戸期の文人画家たちに大きな影響を与えた言葉である。
 「水暈」とは水気たっぷりという意味で、「墨章」とは墨のテリ、もしくは墨の輝きという意味だと、私は理解している。
 この水暈墨章画を省略したのが「水墨画」という言葉であるとされてきた。
 日本の文献では、中国五代の梁の荊浩(字は浩然)の著書である『筆法記』に「水暈墨章」の言葉がある。
 しかし実は、水墨画という言葉が一般的に使われるようになるのはかなり遅く、清代もしくは清代以後に定着し、今日に至っていると思われる。
ではなぜ日本では、いくつもの呼び名が現在存在しているのか。この点に関して私の老師である鈴木篩雪先生は、明快な答えを与えてくれた。
1959年に再興日本南画院が文化庁の肝いりで結成された。初代会長に請われて松林桂月が就任する。桂月翁晩年のことである。水墨画を指向する会として結成されたのである。
 結成間もない日本南画院展を見て、桂月翁は次のようにいった。
「もはや水墨画と呼べる内容の画は、この会には存在しない。皆の画  
はとても水墨画とは呼べない。これからは別の名を使うがいい」
松林桂月の存在は大きかった。これ以降水墨画を描く作家達は自ら水墨という名を捨て、各自が独自な名称を使うようになったと考えられる。
 私の老師は、直接桂月先生から指導薫陶を受けており、系譜上は桂月の塾長をつとめた吉田登毅の唯一の門弟であった。前述した桂月翁の言葉は、老師が私に直接語った話であり、老師は他界するまで桂月先生の遺訓を守り自らの画を墨画と称した。老師は1978年、水墨専門作家としては、国内歴史上最初の内閣総理大臣賞を受賞した。  
 現在の日本で水墨画をあらわす名称が多い理由の一つは、桂月翁の一言の故であると思う。つまり、今から約50年の間におきた名称の混乱であり、桂月翁の一言以前には、混乱するほどの事実はなかったと思われる。
 桂月翁の功罪は別として、もはや我々は水墨もしくは水墨画という正規の名称に帰るべき時ではないだろうか?
 これ以上、国内を混乱させないために………。

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