水墨画考3  畑佐 祝融(日本文人画府理事長・合同水墨議長)
水墨画と呼ぶ理由 

〈2〉水墨および水墨画という 文字の歴史的意味

 水墨画という名称には、二つのやっかいな問題が存在する。

  一つは、「水墨」と「水墨画」という二つの文字用例がもつ使用上の歴史的経緯が特殊であること。二つは、日本と中国で原著に近いとして採用された書籍の「水墨」という意味の内容に、食い違いがあるからだ。
 今日の辞書では、意味をどう扱っているのだろうか? 『新漢和辞典』(1964年版、大修館書店刊)では、
「水墨画」という表記上の項目はない。そのかわり「水墨」という項目がある。
〈水墨〉(1)水と墨。また、絵をかくに用いる、 うすずみ。(2)水墨画の略。彩色をほどこさず、うすずみのみで書いた絵。
 『漢和中辞典』(1980年版、旺文社刊)では、
〈水墨〉(1)水と墨。(2)絵を描くためのうすずみ。(3)すみえ。「―画」=墨画。とあり、「水墨画」という項目はない。
 『漢辞海』(2003年版、三省堂刊)では、
〈水墨〉(1)「水墨画」の略。(2)水と墨。(3)うす墨。
とあり「水墨画」という項目はない。
 これら市販された漢和辞典の説明は、まちがいだらけ、というより他に言葉がない。
 日本における唯一の、東洋画論集大成本として市販された『東洋画論集成・上下2巻』(大正4年・読売書院刊)の記述では、
 中国五代の最初の王朝である梁の時代(907〜923年)、荊浩(字は浩然)の著書である『筆法記』に、
 「水暈・墨章の如きは、我が唐代に興れり。」
という一文がある。
 後世の識者は、ここから「水暈墨章之画」という言葉を作った、と日本では考えられてきた。ただし、この言葉が使われたことはまれであったと思われる。そして、この「水暈墨章画」を省略したのが「水墨画」という言葉であると考えられてきた。私の考えでは「水墨画」という言葉が社会的に定着するのは清代末か清代滅亡後と思う。
 「水墨画」という言葉をさらに省略したのが「水墨」という言葉であると、前述の『新漢和辞典』や『漢辞海』には書いてあるが、じつは違う。
 「水墨」という言葉=熟語は、唐の王維(字は摩詰、699〜761年)の著作とされている『画学秘訣』のうち始めの「山水訣」の冒頭にでてくる言葉である。つまり、
 「夫画道の中、水墨を最も上と為す。」
で始まるこの有名な文章は、日本の『東洋画論集成』の冒頭一番目に王維の著作として紹介されている。
 しかし、『南宗画祖・王摩詰』(梅澤和軒著作、昭和4年・芸艸堂刊)では次のようにいう。
 「所謂、『画学秘訣』は、王摩詰の作と言ふよりも、むしろ荊浩の作とすべきが如くである。此の摩詰の画 論は偽物ではあるが、画法であって画論ではない。」
と断定している。事実はどうなのか?
 元代(南宋滅亡1279年〜元の北走1368年まで)の湯(字は君載)の著作である『画鑑』の中に、
 「荊浩が山水は、唐末の冠たり。浩みずから浩谷子と号し、 山水訣を作り…」
とある。
 また、明代の董其昌(字は玄宰)の著作である『画禅室随筆』の中に、
 「荊浩は河南の人、自ら洪谷子と号す。自ら山水訣一巻を撰す。」
とある。
 つまり、現存する王維の作と伝えられた『画学秘訣』は、「山水訣」と「山水論」で構成されているが、にせものであって、王維には画論に関する文章は存在しないと考えるべきである。
 「山水訣」は、荊浩の著作を後世の人が編集して加筆したものであり、「山水論」は別の誰かが後で書いた物と考えることもできる。また『画学秘訣』という表題も、後世の誰かが付けたと考えることが可能であろう。
 『東洋画論集成』の冒頭にこれが収録された理由は、古来、画界に多大な影響を与えた名画論であり、識者の間で王維のにせものとの認識が広く知られていたにもかかわらず、時代を越えて伝播し続けた画論だからであろう。しかし、これが王維の作ではないことを明記しておく必要があったと思う。その意味で『東洋画論集成』はミスをしていると思う。
 荊浩は、歴史上始めて「水暈墨章」という言葉を作った、と日本では考えられてきたが、実はそうではない。
 台湾で出版された画論集成『山水画論』(.賢等著・1975年・芸術図書公司刊)の中の『山水訣・唐王維撰(伝)』の解説では、次のようにいう。
  「詞体の形態といい、文章の風格といい、みな南宋の人語に似る。王縉が編集した『維集』ではこの篇を 載せず、明の焦.が記述した『国史経籍志』で始めてこの著作を収録する。近代の事なり。明人による維集 への収録は、間違いもはなはだしい。」
と論じている。
 劉道醇が記述した『五代名画補遺』では、次のようにいう。
 「荊浩、あざなは浩然、河南の泌水の人。博識で経史に通じ、文は善に属する。太行の洪谷に隠棲し、みず から洪谷子と号す。画作にあたっては山水樹石を良く描き、山水訣一巻を著し、画府に蔵す。」
 つまり、元の湯が記述した『画鑑』では浩谷子とあるが、これは誤りで洪谷子が正しい。
 荊浩の『筆法記』に「水暈・墨章」の語があると、日本で出版された『東洋画論集成』にはあるが、台湾で出版された『山水画論』の中の『筆法記』では、
 「如水墨暈章、興我唐代。」
となっており、食い違いが見られる。
 王維の著とされた『山水訣』の冒頭にでてくる有名な一文、「それ画道の中、水墨を最も上と為す。」においても、台湾の『山水画論』の説明では、「最」の文字は、『画学心印』本や『中国画学全史』本に収録された「山水訣」には存在していない。と明記し、他にもこの全文で2文字が存在せず、2文字が異なった字となっており、さらに一段がそっくり欠如していると記述している。
 台湾の画論集成である『山水画論』は、伝世した諸文献の中で最も信頼できるすぐれたものを取り、かつ良質な他の伝世本との比較で解説部分が構成されているが、問題となる「水暈・墨章」なのか「水墨暈章」なのかについては、「水墨暈章」と記述している。
 台湾の『山水画論』が引用した『美術叢書』の記述では次のようにいう。
 「伝えられる王維・荊浩・李成・華光・唐寅などの書は、おおむね宋・明の人の手になる偽物であり、古文 を割裂改竄し、記録とは呼べないものである。しかし、名言精義の文であり、なお廃するには及ばず。」
とある。
 『山水画論』の解説は次のようにいう、
 「『唐書芸文志』には、荊浩筆法記一巻とある。『新唐書芸文志』には、荊浩筆法記一巻とある。『宋史芸 文志』には、荊浩筆法記二種類とある。荊浩には別に筆法記一巻があり、『王氏画苑』の中に載せられてい る。表題の下に注として一名を『画山水録』という。」
また次のようにもいう、
 「荊浩の著作については、全部にせものに非ず。原著が残佚し、後の人が伝え残したものである。韓拙が記 述した『山水純全集』には、すでに筆の四勢論が収録されている。これは宋の宣和時期に、すでにこの書が 存在していた事を示している。北宋の時期に当たっており、荊浩の時代と遠く離れている訳ではない。…中 略…考えられるのは、歴代の画家達が随時に伝授し、随時に増加した著作ではなかったか?
 日本の『東洋画論集成』に収録された中国の各画論は、日本語の書き下し文であり、原著は記載されていない。また解説に当たるものも一切記述されていない。そして前述したように、伝世した著者名をそのまま鵜呑みにして紹介している。

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