水墨画考4  畑佐 祝融(日本文人画府理事長・合同水墨議長)
水墨画と呼ぶ理由 

 2、水墨および水墨画 という文字の歴史的意味(前号より)

  この『東洋画論集成』は日本における唯一の集大成本であり、今日に至るまで東洋画論の研究ではバイブル的存在となってきた。以来、日本の識者は、水墨画とは「水暈墨章画」の略であると誰もが信じてきたし、「水墨暈章」などという言葉があるとは誰も考えなかったと思う。これは問題が大きいと言わねばならない。
 さて、水墨暈章の意味を考えてみよう。四文字一文節となっていて、水墨と暈章という二文字づつが組になっていることがわかる。つまり、水墨がうるおいと輝きをもっていること、という意味になろう。では、水墨という文字の意味は何か?
 わからない、としか言いようがない。
 水墨という言葉は、水と墨という単純な一文字づつの意味ではなく、水墨という熟語にすることで、従来にはなかった新しい絵画様式を表現したものと、その使用例から憶測することができるからである。
 「水墨」という文字は、荊浩以降の各時代においても識者の間で使われてきた。例えば、宋代の郭熙(字は淳夫)の著作である『林泉高致』の中の「画訣」には、「水墨」の文字がある。その使い方は荊浩の「山水訣」の「水墨」と同一である。
 元代の湯の『画鑑』にも「水墨」の語があり、同じ使い方となっている。清代の『芥子園画伝』(1701年初版、王安節著)初集にも「水墨」の語は使われている。しかし、水墨という意味を明確にするには、水墨暈章ではわかりにくい。後世の識者は、水墨という表現の説明を、「水墨暈章」から「水暈墨章」に置き換えることで、意味の明確化を計ったのではないだろうか?「水墨がうるおいと輝きがある」という表現より、「水気充分で輝きのある墨色(水暈墨章)という表現の方が、よりわかりやすく、また現実の水墨画を説明するのに符合するからである。
 この「水暈墨章」と置きかえた伝世本が日本にきて、田能村竹田(1777〜1835年)が中国渡来の言葉として「水暈墨章之画」という言葉を使っている。しかし、水墨画とは呼んでいない。
 話を整理してみると、荊浩が「水墨暈章」という言葉を作ったのは、ほぼ確かだと考えていいだろう。つまり、「水墨」という言葉が定着したのが先で、その後かなりの歳月(場合によっては約800年以上)のあとに「水墨画」という言葉ができたと考えられる。
 荊浩が作った「水墨」という言葉は、過去には存在しなかった新しい芸術表現を説明する言葉として、歴代の画家に支持されてきたように思う。
 荊浩以後の識者の中に、水墨という文字を、荊浩が使った意味以外で用いた者が見あたらないこと。また、荊浩以前に、水墨という文字を使用した識者が同じように見あたらないこと。使用例ではいつの時代も熟語として使われていること。そして、色彩が付いている画にも使われ、墨一色の画に限定して使った事例がないこと。
 つまり、歴史的な事例から言える「水墨」の文字には、日本の各種漢和辞典が説明するような、(1)水と墨。(2)絵を描くためのうすずみ。(3)墨画。(4)彩色をほどこさず、うすずみのみで書いた絵。などという意味は、存在しなかったのである。
 さて、重要な人物である荊浩が、いつの時代に活躍したのか明らかにしておきたい。なぜなら、日本の『東洋画論集成』では、「梁の荊浩」と表記しているからである。しかし、台湾の『山水画論』でも、また、『中華文明史話叢書・巻15・絵画史話』(2003年・台湾国家出版社刊)でも、荊浩を「五代」としているのみで、梁とはいっていない。事実はどうなのか?
 前述の『絵画史話』では次のようにいう。
 「荊浩。生没年不詳。戦乱によるためである。太行山の洪谷中に隠居した。自ら洪谷子と号す」
また、要約すれば次のようにいう。
 荊浩は記録の上では、五代の南唐の後主、李.(南唐最後の王)の評価をうけ優遇されている。歴史上名高い「澄心堂紙」は李.が作らせた紙であったが、荊浩は自由に朝廷の宮殿の中にあった澄心堂に出入りしている。この時期、李煌の保護によって、名墨といわれた李廷珪墨が完成しているし、五代を代表する水墨の名家は、その大部分が南唐に集まっていた。荊浩が活躍し制作が佳境に入っていたのは、この南唐の時期と考えられる。梁は西暦907〜923年までの中央政権であり、南唐は937〜975年までの南京を首都とした地方政権であった。975年に宋によって滅ぼされたのである。荊浩の生没年が不明なため、中国の識者は五代の荊浩と表示した。五代とは、唐が907年に滅亡してから宋による統一がされるまでの期間をいう。

3、荊浩の著作が王維にすり替わった理由

  「水墨」という新しく作られた熟語は、荊浩以後の早い時期に社会的に定着したように思う。
 『山水訣』が、王維の著作と言われて伝世してきた理由は、三つ考えられる。一つは、「水墨」という言葉自体にあり、二つは、文人画の勃興とその発展に関係し、三つは、北画と南画の対立にあったと考えられよう。
 後世、北画の祖といわれた李思訓父子は、隋の伝統であった青緑山水(金碧山水ともいう)を継承した。彼らは斧劈皴を創造し、山水画における北画の祖となった。
 李思訓(651〜716年)は唐の宗室の出身で、唐初の高宗のときに揚州の江都令に任じられ、武則天のときに官を捨て野に下る。その後、政界に復帰し、玄宗の開元始めには右武衛大将軍となった。
五代のときに南画と北画という二大画風が正式に確立し、筆法・墨法の大部分が備わった。五代の荊浩・関仝が北画の創始者といわれ、同時期の董源・巨然が南画の創始者といわれる。共に水墨に主眼を置いたのである。そしてこの四人は、共に南唐の画院で活躍した仲間であった。
 水墨山水の世界における、南画や北画の表現形式が大部分完成したころ、荊浩は新しい熟語として「水墨」という言葉を造語したようである。
 盛唐の呉道子以前は、山水画は極彩色が中心であり、墨を中心とする山水画は唐の呉道子から始まるようだ。わずかに、唐の王維が墨線を中心とした山水画の「 川図」を描いたという伝説が残っている。
 荊浩は唐の山水画の本流を継承しながら、水墨山水の道を確立した。彼が発明した「水墨」という言葉は、これ以後の北画や南画を愛好する人々や文人画家に支持されたのである。つまり、それ以前の墨画に対し、南画や北画という水墨山水画の新しい絵画様式を説明する言葉として、また唐の玄学を制作上の思想背景にもつ絵画を説明する言葉として、「水墨」という言葉は熟語として認められ、使われて来たと考えることができるように思う。
 五代のあとの北宋は、水墨山水における北画の全盛期であった。北宋の三大家である李成・関仝・范寛は共に北画家である。李成は唐の宗室の出身で、『宣和画譜』では「本朝第一」と称されている。南画が優位に立つのは南宋になってからである。南宋の四大家といわれる、李唐・劉松年・馬遠・夏圭は共に水墨山水における南画家であった。
 北画は長期にわたって画壇の主流であり、輝かしい歴史をもつ。北画の祖の李思訓は大将軍にまでなった名門であり、創始者の荊浩には水墨山水におけるバイブルともいえる画論があり、また「水墨」という普遍的な言葉の創始者でもある。李成は名門であり、本朝第一と称された北画の大家であった。
 しかし、南画の世界には北画に対抗できるものはなかった。南宋のとき、南画が大きく北画をしのいで画壇の主流となったころ、ある南画家が大儀名分を得るために考えついたのが、南画の祖を作ることではなかったか?

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