水墨画考5  畑佐 祝融(日本文人画府理事長・合同水墨議長)
水墨画と呼ぶ理由 

 北画の祖が唐の李思訓なら、南画の祖もやはり唐代にほしい。唐の時代でそれらしい有名人をさがせば王維にいき当たる。王維を南画の祖ということにして、荊浩の著作の一つを王維の著作として書き直したのではなかったか?
 このとき、なぜ呉道子を持ち出さなかったのか?それは、呉道子は生前から「百代の画聖」と呼ばれ、絵画の神様というだけでなく、記録からは水墨画の創始者であった可能性が強い。伝えられる呉道子の画風からは、北画、南画、文人画、抽象、前衛、など水墨の可能性のすべてが、発生できると考えられるのだ。
 呉道子はオールマイティな画家であった。このような絵画全体の神様を、南画だけの祖先にすることができなかったのだと思う。そして、呉道子が後の世に出なかった最大の理由は、身分が低かったことと知識階級の人ではなかったことだと思う。
 王維が「水墨」という言葉を作った事にすれば、南画にも名分がでてくる。現存する『山水訣』の文が南宋の人語に似ている理由は、こういうことではなかったか?
 南画がひとたび水墨山水画の主流になったあと、そのまま近代まで南画の優位性は変わらず、北画が盛行することはなかった。強大な勢力を持った南画各派に北画派の人々が異議をとなえることは危険な行為だったと思う。
 そして、元代の湯后が、山水訣は実は荊浩の作であるといい、明代の董其昌(南画家)が、荊浩が山水訣を作り、といったことで、荊浩が王維の名を騙って画論を書いたような気運さえ作ってしまった。冷静に考えれば、北画の荊浩が南画の王維の名を騙ることはあり得ないことなのだが……。
 北画の創始者で「水墨」や「気韻」という言葉の発明者であった荊浩は、王維の名を騙った悪者になり、結果として北画の面子は大いにつぶれた。南画は一石二鳥をえて、ますます盛行したのである。
 歴史的経緯から見れば、五代のときも北宋のときも、南画と北画が明確に分かれていたわけでなく、いわんやいがみ合っていた訳でもない。大きな確執はなかったと思われる。歴史上、荊浩の著述内容を最後に紹介したのは、北宋末の『山水純全集』だった。ややこしくなるのは南宋のときからだと思う。
 宋という王朝は、北宋のときも南宋になってからも党派争いがはげしかった。政治における旧法派と新法派の争いは南宋の滅亡まで続いた。二つの党派に分かれて争う風潮は、南画と北画という、水墨の二大流派を明確に分けることにつながった。どちらが優秀かという争いであり、つまりは水墨山水のなかでの兄弟げんかに他ならない。
 荊浩は美術史のうえで重要な人物である。その業績は極めて大きい。しかし南宋以後、荊浩は一般的美術家のなかでは悪者にされ不当に評価を下げられたと思う。
 あるいは、劉道醇が記述したように、荊浩は山水訣一巻を著作し、画府に蔵していたかも知れない。後世の識者の誰かが、特に南宋の画院関係者の誰かが、かってに荊浩から王維に変えて加筆したものを発表した。とも考えられる。
 もしそうだとしたら、荊浩は約800年に渡って、王維の名を騙った悪者として無実の罪を着せられてきたことになる。
 いまだに中国美術史において、荊浩は不当に扱われているのかも知れない。私は荊浩の名誉回復を祈っている。
 荊浩が不運だったのは、彼が北画の創始者であり、水墨に関する初期の有力な著作を発表したことと、水墨という言葉や気韻という言葉を創始したことではなかったか。これが荊浩を悪者にした要因のように思えてならない。
 ここでいとも簡単に始祖をでっち上げるという、社会背景を説明したい。
 水墨を愛好する人々は歴史的に前例のある、一つの手法を用いたのだと思う。それは唐の王朝が中国を支配するために取った手法であった。
 唐は鮮卑族の王朝であり、唐の皇帝の姓は中国を統一する数代前には漢族的な姓ではなかった。何代か前に中国的な姓である李に変更したのである。唐は中国の統一王朝となるにあたって、漢族=中国人を支配するための大義名分を考えた。それが李の姓をもつ古い時代の漢族の有名人を、自らの祖先にでっち上げることだったのである。
 この理由により「老子」が唐の祖先となった。「老子」は道教の祖である。このために、唐は「道教」を国教に指定した。唐は道教を保護し、全国に道観を建て、道士にあらずんば人ではないという風潮を宗教界にまき起こした。
 日本の遣唐使が仏教の高僧を日本につれて帰る願いを唐の朝廷に出したとき、道教の僧といっしょなら仏教の僧を日本に出国させると、唐王朝は返事したように私は記憶している。日本は道教の招来を望まず、そのため鑑真和上の密出国となったと聞いている。
 文人画家や南画家にとって大義名分はどうしても必要なものであったのだと思う。
 王維の著作とされた『山水訣』冒頭の「それ画道の中、水墨を最も上と為す」という一文には、歴代の水墨作家の、それも文人画家や南画家の強い願望が読みとれるように思う。
 真実はまだ闇の中であり、解明はむずかしいように思う。
 三つ目の理由として、宋代には水墨のなかに儒家思想が入ってくる。この影響はのちに、「画は人倫の教化を為すもの」という考えや、「画品」という、作品がもつ品性の高潔さで優劣を考える風潮を呼び、描き手の人格の高さ=「人徳」まで問題とするようになった。最大の眼目は「高邁な精神性の発揚」であった。これが文人画の大義名分となっていく。
 これらの価値観は、彩色画より水墨の世界に強く求められた。なぜなら実在を無視した白と黒の世界は、描き手の精神を最も表しやすい絵画形態と考えられたからだ。その意味でも、文人画や南画の祖を王維とする説は人々に支持されたのである。

4.歴代画論に表れた王維の記述
 資料価値が認められた歴代画論の中で、王維に関する記述が最初に出てくるのは、北宋の蘇軾(字は東坡)が著した『東坡論山水画』である。そこでは次のようにいう。
 「摩詰(王維)の詩をあじわうに、詩中に画あり、摩詰(王維)の画を観るに、画中に詩あり。」
また次のようにいう。
 「唐人である王摩詰(王維)や李思訓の流儀は、……中略……世を挙げてこれ(王維・李思訓)を宗とした。まさに唐人の典型ではないか。」
また蘇軾は「士人画」という言葉を創造し、歴代の画論はこの用例を模倣し、やがて「文人画」という言葉に変化している。
 北宋の米.(字は元章)が著述した『論山水画』では次のようにいう。
 「范寛の山水は……中略……すべて世にいう所の師は王摩詰(王維)である。」
北宋の『宣和画譜』の中の「山水敘論」は次のようにいう。
 「唐より本朝(北宋)に至る山水画で、名声を得たものは、画家から生まれたのではなく、多くは高位高官の人や士大夫から出ている。……中略……唐代では、李思訓、盧鴻、王維、張 などがおり、五代では荊浩、関仝などがいて、これらはみな独りで画の妙味を創造したのではなく、人品が高くなければ及ぶことができなかった。」
 北宋の韓拙が著述した『山水純全集』の「序」では次のようにいう。
 「伝にいう。『書く者は造化を為す。人倫を助け、神変を極め、幽微を測り、六合(六籍)と功を同じくし、……中略……画は聖なり。天地の至奥を極め、日月の不照を表す。』     (続く)

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