水墨画考6  畑佐 祝融(日本文人画府理事長・合同水墨議長)
水墨画と呼ぶ理由 

 またいう。
 「唐の右丞であった王維の文章は世に冠し、画は古今に絶した。(彼は)自題(自分で題を付けた) の詩でいう。『当世はあやまって詞客となる。前身は画師であったろう。』まことに、この言ではないか!…中略…もし、博学で広く識らなければ、精を得れども、妙に通 じることができようか?ゆえに、少ない知識の士人や凡俗の徒では、この事をおろそかにする者が多いのである。…中略…前賢の奥義に達することは、いまだに不学の者では良く行うことができない。この言葉を信じるべきである。」
またいう。
 「唐の李思訓、張藻(張 の誤り)、宋審、王維、王宰、楊炎などの流(流派)は、仙格をもち神奇であって、高古を越えていて伝世して師法となった。」
北宋の米友仁(字は元暉が著述した『元暉題跋』では次のようにいう。
 「右丞の王摩詰(王維)は、古今独歩であった。世にある秘蔵は多く、…中略…」
元代の湯が著述した『画鑑論画山水』では次のようにいう。
 「王右丞維(王維)の人物山水は、筆意が清潤であり、羅漢や仏像を描いて佳といえよう。(王維は)日頃から、雪景、剣閣、桟道、騾綱、暁行、捕魚、雪灘、村墟などの図を好んで描き、彼の「川図」は最も世に 著名なものである。」
明代の王穉登が著述した『百穀論画山水』では次のようにいう。
 「倪元鎮(倪 )の詩でいう、『王侯(王維)の筆力はよく鼎を扛(挙)げ、五百年来この君なし』」
明代の董其昌が著述した『画禅室論画』では次のようにいう。
 「文人の画は、王右丞(王維)から始まり、…中略…」
以上各時代に表れた王維の記述を紹介した。
 知識人が絵画に対してもっていた考え方は、『山水純全集』の「序」で概略次のようにいう。
 「画は人倫を助け、神変を極め、幽微を測り、六籍と功を同じくし、…中略…天地の至奥を極め、日月の不照を表す。」
この一文の中の「画は人倫を助け、〜六籍と功を同じくし、」までの一節は、『歴代名画記』冒頭の一句である。いや、そうではない。『歴代名画記』の中に韓拙より後の人が偽託した加筆部分であろう。
 また「日月の不照を表す」という一文は、『史記』に司馬遷が解説として注入した「日月と同じく人の世を照らす」という意味の言葉があり、これをもじったと考えられよう。
 いずれにせよ、士人画つまり文人画の最たるものとして、北宋の時には王維の人気は群を抜いていたのである。
 北宋末の米友仁は次のようにいう。「(王維は)古今独歩であり、世にある秘蔵は多い」つまり人気があれば、大量 の偽作が世に出回るという事なのだ。
 元代の湯の言葉では、王維はオールマイティで、あらゆる画風の作品が王維作として存在していたという。
 しかし、北宋期の蘇軾より前の世代である郭思(字は若虚)の著作である『図画見聞志』の中の「論三家山水」では次のようにいう。
 「伝世してもはや見ることが難しいのは、王維、李思訓、荊浩などである。」
この記述が正しければ、蘇軾以後に王維人気が沸騰し、王維の偽作が大量に世に表れたことになろう。そして王維著作として偽の画論まで作られていった。
 今日伝わる王維《伝》の画論は、この風潮の中で北宋から南宋にかけて作られたものではなかったか?荊浩はこの時に、世の風潮の中ですり替わりの犠牲になったのではなかったか?


5.墨絵という文字の使用例

 日本では「墨絵」という文字使用例が、江戸時代にはあった事がわかっている。
 狩野派の画論として一七二一年(享保六年)に出版された林守篤の『画笙』では、
 「画工たらん者は、万事知らず共、彩色下工なりとも、墨絵をよく書くは面 目也。先ず粉本を見て強いて墨絵を書き覚えよ。」
とある。 
 この著作について、河野元昭氏は『日本の美術・水墨画』(二〇〇二年、美術年鑑社刊)の中で、概略次のようにいう。
 「…この『画笙』は、土佐派の土佐光起(一六一七〜一六九一年)が著した土佐派の秘伝書『本朝画法大伝』を盗用している。しかし、墨絵論の部分だけは、『本朝画法大伝』のどこにも見いだすことができない彼独自の見解だった…」
さて、『東洋画論集成』(今関寿麿纂訂・大正四年・読画書院刊)では、日本を代表する画論として、仲山高陽(一七八〇年没)の『画譚 肋』や、中林竹洞(一八五三年没)の『竹洞画論』、田能村竹田(一八三五年没)の『山中人舌上下巻』や、渡邊崋山(一八四一年没)の『崋山尺牘』などが収められている。いずれも江戸期を代表する著名作家である。しかし、これらの画論では、墨絵という文字は、仲山高陽以外に使った者がいない。
 唯一、墨絵という文字が見える『画譚 肋』の、その部分は、「今こなたの墨絵人物は水墨なり」となっている。
つまり、…日本で言われる墨絵とは、水墨のことである…と言っているのである。
 前述した『東洋画論集成』収録作家は、みな漢学の素養が深い。一流作家ともなると、さすがに漢字で間違いを犯さない。
 江戸時代では前述の各画論以外、上方浮世絵の大家、西川祐信(一六七一〜一七五〇年)の画論『絵本倭比事』がある。その記述では、
 「まづ筆勢と水墨とを第一に学び次に図を書き習ふべし」
と言っている。
 以上のように、著名作家の画論では、土佐派から浮世絵派に至るまで、きちんと水墨という表現を使っており、墨絵などと表現している者はいない。
 『画笙』の著者、林守篤は、江戸期の無名作家であった。平気で他人の画論を盗用するような二流三流の作家である。彼が「墨絵」と言ったのは、無知のなせる技であると、言ってしまえば簡単なのだが、どうも、そうはいかないように思う。
 たしかに、墨絵という文字は和製造語である。 
 知識人や知識のある作家は、自己の研究や、この道に入った弟子たちを指導する場合、正規の言語として「水墨」という言葉を使っていた。
 しかし、一般人相手や日常生活では、通称名として「墨絵」という言葉を使った者がある程度いたのではないだろうか?社会的にも、ある程度の認知があったのではないだろうか?
 そう考えると、前述の仲山高陽の一文=日本で言う墨絵は、水墨のことである…が無理なく理解できるように思う。通 称名、つまり俗語として「墨絵」という言葉はいがいに民衆に知られていたのかも知れない。
 私は江戸時代しか調べていない。「墨絵」という言葉の使用例がいつまでさかのぼるかは不明である。
 仮に、通称名として一定の時代、社会的にも使われてきたのであれば、日本では「水墨」の俗語が「墨絵」という事になるであろう。
 これは、以外と大きな問題になるかも知れない。


6.水墨という文字の初見について
 『水墨画 II 』監修・辻惟雄、執筆・島尾新・荏開津通彦・高橋範子・村田隆志・八木宏昌、二〇一〇年、美術年鑑社刊)の中に収録された、「水墨画年表」(植田彩 芳子編)では次のようにいう。
 「大暦年間(七六六〜七七九年) の進士、劉商の詩に「水墨」の語見える(水墨の初見)」
進士となった劉商の詩に「水墨」という言葉が初見されるというが、私はその文を見ていないため、これについては何もコメントできない。      (続く)

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