水墨画考7  畑佐 祝融(日本文人画府理事長・合同水墨議長)
水墨画と呼ぶ理由 

 後世使われた「水墨」という語は熟語であり、その意味は「水暈墨章」であった。これが五代から現在に至るまでに表れた「水墨」という熟語のたった一つの意味である。他の意味で使われた事例は存在していない。
 また、五代の荊浩が「水墨」という語を使う以前の絵画関係の文献で、中国学術界が認めた資料価値が確かな文献の中には、「水墨」という語は一つも見あたらない。
 例えば、「絵画」という熟語は、清代に入ってから今日と同じ意味での使用例が出てくるが、古くは周時代の記述に絵画という文字用例がある。しかし、この時代の意味は今日と全く違うのだ。
 唐の大暦年間に近い時期に、「水墨」の語が見えると言うが、どのような意味で
使われた「水墨」なのか解らなければ、私には何ともいえないのだ。


7.名称が持つ意味のまとめ
 今日我々が「水墨」および「水墨画」という文字を使う場合、漢字の使い方としては、水墨=水墨画でいいと思う。厳密には、「水墨」が学術専門用語であり、「水墨画」が一般用語となる。
 歴史上、「水墨」と呼ばれた画も、「水墨画」と呼ばれてきた画も、共に彩色が付いているものを含めていた。墨一色に限定した使い方はされてこなかったのである。
 色彩が中心でなく、墨を制作上の中心としたものに水墨という名称を使用してきたのであって、色は使っても使わなくても、どちらでもよかった。
 また、具象・抽象を問わないのも当初からのルールである。
 唐の中期、商都であった洛陽の記録文には、墨による抽象画や、墨でアクション・ペインティングが描かれ、人々から喝采をあびたと書かれている。
 歴史的に明確となっている水墨画と呼べる定義は.次のようになると思う。
〈水墨画の定義〉
1、水暈墨章を主体とした、具象・抽象を問わない平面絵画作品であること。水暈墨章とは、水気たっぷりで、加えて墨色に冴え=照りとも輝きとも艶ともいえる、があること。
2、色彩を入れても水墨画と呼ぶことのできるルールは、墨の発色によって作品が構成されており、作品の主題が墨色であるということ。このような画を我々は「水墨画」と呼ぶのである。
 むろん、墨一色の画が、水墨画の最たるものであることは論をまたない。
 また、前述した論旨を要約すれば、水墨の世界における名称は次のようになろう。
〈名称が持つ意味〉
1、「水墨」
 「水墨」という熟語は、水墨画を表す正式名称であって、学術専門用語である。
 「水墨」という名称には、明らかな思想性が内在しており、唐代の玄学を制作上の思想理念としたものを「水墨」と呼んできた。そして「水墨」という名称の発生当初から、「水墨」とは眼に見えない人間の精神を表す絵画と、位置づけられてきたのである。
 その後、宋代になって理学の思想が加わり、明末から陽明学の思想が加わって発展した。
2、「水墨画」
 「水墨画」という熟語は、学術的な論述以外に使用できる一般的名称であって、正式名称に準じる。
3、「墨彩画」
 「墨彩」という熟語は、「墨に五彩あり」という意味で使われて来た言葉である。彩色墨画もしくは淡彩墨画の省略語の意味で使うと、墨彩という文字の意味が混乱することから、今日まで確実な文章には「墨彩画」という文字の使用例がないのである。
4、「彩墨画」
 「彩墨画」という熟語は.淡彩墨画、もしくは彩色墨画を意味する言葉として、西暦二〇〇〇年以降の中国美術界では使用されている。新しい言語といえよう。しかし、彩墨画という名称に.彩色水墨や淡彩水墨という意味を持たせることはできない。
 なぜなら、水墨という絵画名称の中には、もともと色彩も含まれていたからである。色がついても墨色が制作の中心なら、「水墨」と呼んできた歴史が、千年以上も続いているからだ。
5、 「墨画」
 「墨画」という名称は、水墨という名称が創造される前に描かれた墨の作品にも使われる用例であり、特別な思想性はもたない。
 「墨で描いた画」という意味以外存在していない。
6、 「墨絵」
 「墨絵」という名称は、江戸時代中期にはすでに水墨を表す俗語として日本の社会に浸透していた。日本独自の俗語であって、前述した各名称のように、水墨文化をもつ各国(中国・韓国・台湾・日本)共通の名称ではない。
以上のように、まとめることができるように思う。


 抹殺された画聖呉道子

前言
 盛唐の時期に活躍した呉道子という画家は、どのような作品を描いていたのであろうか?彼の作品はすでに消失して久しいため、記録文でその絵画の概要を知るしか方法はないのである。
 しかし、日本で呉道子の記述を見ることはできなかった。
 中国の文献でも、北宋時代以後は彼の名前も評価も伝説も、共に語られることはまれであったと思われる。
 それは、忘れ去られたというより美術史から意図的に抹殺されてきた、と考えた方が自然なように思える。
 話の順序として、まず現存する呉道子の記録を紹介し、呉道子がどのような作家であったのか見たいと思う。
 呉道子の記述を引用した文は、以下の二篇の著作を主体とする。
『中国文化史知識叢書・巻22・中国古代絵画』徐改著作・1993年台湾商務印書館股彬公司刊。『山水画論』.賢等著作・1975年・台湾芸術図書公司刊。


   (一)


〈呉道子〉(685〜760年)
 呉道子は、原名を道玄といい、陽.(今の河南省禹県)の人。
 幼少のとき父母を失い、家は貧しく、早くから画工となった。張旭や賀知章の書法を学習し、のちに絵画を学び、努力して満20歳に至らない時期に画の世界で名を上げた。
 「画聖」と称された呉道子は、寺観の壁画の創作に従事して世に名声を得たのである。説によれば、彼が興善寺の中門の壁画を作るとき、長安の士人や百姓や男女老幼は争っておしかけてこれを見たが、その情景は水も漏らさぬほどの人出であったという。
 呉道子が描いた仏像の霊光圏は界線を使わず、ただ「立筆揮掃、勢若風施」(筆を立てて運筆し、その勢いは風を起こした)であり、見る者は喝采をさけび続け、町中に驚きを与えた。
 呉道子の作る壁画は、長安と洛陽で300余間の長さに及び、彼の創造する形象は感染力があった。一説によれば.彼が長安の景雲寺に描いた地獄変相図は、奇抜にして異状、陰深々として見る者を総毛立たせるものであった。牛や羊の、殺を業とする者や漁労を業とする者は.これを見たあとは、紛々として生業を改める者が続出したという。
 唐人の朱景玄の著作『唐朝名画録』の記述は次のようにいう。
 天宝年間に、唐の玄宗は忽然として四川省の嘉陵江の風光を観賞せんと思い、呉道子を派遣して写生させた。呉道子は眼に焼き付け、心に記憶し、これを写生の替わりとした。長安にもどったあと、玄宗は彼に画を要求した。彼はいった。「臣に粉本なし、心に記すあり」
 玄宗は彼に命じて大同殿の壁画を制作させ、ただ一日の時間を与えた。呉道子は嘉陵江300里の美しい風光を描き出したのである。
(続く)

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