水墨画考8  畑佐 祝融(日本文人画府理事長・合同水墨議長)
抹殺された画聖呉道子 

 玄宗はまた、李思訓にも大同殿に嘉陵江の山水を描かせた。李思訓は何ヶ月もかけて完成させた。玄宗は両人の画を比較していった。「李思訓の数月の功、呉道子の一日の跡、みな極めて妙なり」
 呉道子が描いた嘉陵江山水は、宋人の董 が著した『広川画跋』の記述では、「図本以進」(図本をもって進む)とあり、明人の張丑が著した『清河画舫』の記述では、「請匹素写之」(絹を請うてこれを写す)とあり、共に大同殿の壁画のことではない。
 美術史家が指摘しているのは、天宝年間には李思訓はすでに死去しており、呉道子と同時に作画することは不可能としている。この問題について史学家は継続して考訂している。
 この記述からいえるのは、呉道子の画は水墨を主体とした簡体画であり、淡彩がほどこされ豪壮な勢いをもつものであった。彼は隋唐の名家が重視した色彩の画風を改め、豊富にして力ある線描表現を画の対象とし、いわゆる「疏体」の画風を発展させた。
 同時代の史論家である張彦遠の記述では、呉道子の山水画は、奇怪な石は崩れんばかりで、まるで酒をなでるようである、という強い真実感を持っていた。この画法は水墨画派の養生と成長を促し、唐末、五代の水墨山水画の勃興を誘発したのである。
 伝説では、呉道子がある廟の和尚を訪問したさい、和尚は彼に対して傲慢で理が無かったため、彼は廟牆の上に一頭の驢を描いた。この画驢は毎日夜になると牆の上を走り回り、和尚の屋内を乱した。和尚は呉道子に画を塗りつぶして、夜に安静が得られるようたのんだ。
 後になって、呉道子は唐の玄宗の召によって宮廷に至り、「内教博士」、「寧王友」(親王の陪伴となる官職)に封じられた。
 宋代の郭思(字は若虚)が著した『図画見聞志・巻五』は次のようにいう。
 Tあるとき、呉道子は玄宗に従って洛陽にいった。
 偶然に、剣舞の名手であった裴旻将軍の家で喪事があり、裴将軍は呉道子の画芸を敬慕していたことから、ついに彼に請うて天宮寺に鬼神を描き、死者が亡霊とならないよう多くの銭や帛を送ってたのんだ。呉道子はその銭帛を返して次のようにいった。
「久しく将軍の大名は聞き及んでおります。私に剣舞一曲を披露して頂けませんか?その壮気を拝見すれば、私の画の助けになります。それを私に対する報酬とさせて下さい」。
 ここにおいて、裴旻は喪服を脱ぎ捨て剣をもって舞い始めた。その姿は、「走馬が飛ぶ如く、左に旋回し右に転じ、きらめく剣は雲に入り、高さ数十丈、電光の如く下を射った。裴旻は手を引いて鞘を取ってこれを受け、剣は室内と人々を透過して、見る者は数千人、驚愕しない者はなかった。
 呉道子はここにおいて筆をもって壁に向かって描いたが、颯然として風は起こり、天下の壮観であった。呉道子の生み出した絵は、ここにおいて意を得たのである」U
 この記述の中から想像できるのは、呉道子の作画は感情が極めて豊かであったことで、衝動を起こして、「筆をふるい、その勢いは施風の如し」であり、その画は神が宿り飛揚するようであった。
 北宋の蘇軾(号は東坡)の言葉に、「それ筆を下せば風雨心地よく、筆がいまだ到らないところは気すでに呑む」との詩句の形容は、呉道子の画風を充分に説明している。
 呉道子の人物画は、生動が真実で用筆を強調し、柔の中に剛が生まれ、大きな力量があった。線描はじゅんさいやあかざのようであり、流暢で頓挫あり、始めて「柳葉描」、「棗核描」を創りだした。その勢いは円転飄逸で強い運動感があった。人物の衣帯は、ゆったりと飄逸であり、まるで風の助けがあるようで、「呉道子は風を帯びている」といわれた。 
 設色の方面では独自性があり、
 「描くところの壁画、巻物、軸は、筆を落とせば雄勁で、彩色は簡潔で淡色であった」
 (『図画見聞志・巻一』)
といわれた。作品には純粋な白描もあり、人はこれを「白画」とも称した。
 呉道子の真跡はすでに見ることができない。ただ、現存している日本の『送子天王図』は、呉道子の作と伝えられているが、これは宋人の模本と考えられている。しかし、そこには呉道子の画派の風格を見ることができる。
 『図画見聞志』によれば、五代の荊浩はかって人に次のように語った。
 「呉道子が描く山水は、筆ありて墨なし。項容は墨ありて筆なし。吾は二人の長を取り、一家の礼を成さん」
 『唐朝名画録』の記述では次のようにいう。
 「およそ描くものは、人物、仏像、鬼神、禽獣、山水、台殿、草木などみな世に冠絶し、国朝第一なり」
後の人は彼を尊んで「百代の画聖」と呼んだのである。


(二)


 呉道子は、張僧*を師とし、また張孝師を師とし、また筆法を張長史旭から授かる。呉道子を師とした者は、廬稜伽、楊庭光、李生、張蔵などであり、それぞれ長ずる所があった。
 国朝の呉道子は、古今独歩、前に顧鎧之、陸探微を見ず、後ろに来者なく、筆法を張旭から授かる。
 呉道子は、天賦の勁毫をもち、幼いときから神奥を身につけ、往々にして仏寺の壁画を描き、怪石は崩れ落ちんばかりで、酒をなでるようであった。また彼が描いた茶山や水石は走るように奇異で、その境と性は会同した。このため(唐の玄宗皇帝は)召して山中の明月峡(蜀の嘉陵江)を写し取らせ、その所を見てこれを述べ、知言であることを願った。
 呉道子の跡を見れば、六法ともに備わり、万象は必ず尽くされ、神人が手を貸して造化を究極にしたというべきである。その気韻は雄壮にして、ほとんど.素に容れず、筆跡は磊落で、ついに意を牆壁にほしいままにした。また、彼の細画は極めて周密であった。この神は異なっているからである。
 呉道子はまさに画神たるべく、神が天地を創るように作り、その英霊は極まるところがなかった。衆の画は、みな見える所は密であるが、彼はその点画を離披し、衆の画はみな形が似ることを思うも、彼はその凡俗を逸脱している。
 弓を引き刃を抜き、柱を建て梁を構えるに、界筆、直尺を使わず、まるで、みずちがとぐろを巻くような太くて強い線や、美人の黒髪のような細くて美しい線は、数尺を飛動し、毛根は肉より出て、力は健にして余裕があった。
 これらは、まさに口訣で伝わるべきだが、知る人とていない。数仭の画は、あるいは臂から描き起こし、あるいは足から先に描き起こし、大いにあやしいが、肌や肉の脈は連結し、師の僧*を大きく飛び越えている。張僧*、呉道子の妙は、筆わずかに一、二のみであるが、形はすでに応じている。彼らの離披たる点画は、時に欠落を見るが、これは筆があまねく行き渡っていないといえども、しかし、意はあまねく行き渡っている。
 (筆者注)〈出典:『歴代名画記』唐の張彦遠著より引用〉
 ここに紹介した『歴代名画記』には、後の人が加筆した疑いがある。ただし、どの部分が加筆であるかは判 明していない。伝世した呉道子の記述や話がほとんどであろうと考えられるため参考文献として紹介した。


(三)


『中国文化史知識叢書・巻22・中国古代絵画』の記述の中では、他の作家と比べれば呉道子の記述は群をぬいて多いのである。そして呉道子を「百代の画聖」と呼んだ。他に、『歴代名画記』唐の張彦遠著では、呉道子を「画神」と呼んでいる。「画聖」あるいは「画神」という表現には、共通した内容がある。それは、前にも後にも呉道子ほどの画家は表れないという思いであり、それが「百代の画聖」という表現になった。

(続く)

水墨画考indxへ
topページへ