水墨画考9  畑佐 祝融(日本文人画府理事長・合同水墨議長)
抹殺された画聖呉道子 

 この『中国文化史知識叢書・巻22』の中では、古代から近代に至る多くの画家たちが紹介されているが、その中で画聖という称号が付けられた者は、呉道子の他には1名しかいない。
 その1名とは、清代の王翡(1632〜1717年)であり、彼は清代の「四王」の中の一人である。清代における伝統的筆墨の大成者といわれる。彼は江南から動かず、多くの門下をそだて、その影響は画壇300年の久しきに及んだ。しかし、上述の知識叢書の中での記述量は少ない。
 呉道子の事跡には、まさに神がかり的な部分が多い。「神わざ」としか思えないほどの存在感を作品が示した画家は、知識叢書の記述では、呉道子以外には二名しかいない。二人とも唐代の人で、一人は馬画の「韓幹」、もう一人は石を描いた「王維」。ただし、この王維の事跡は、後世の偽造であることが明らかとなっている。
 呉道子の事跡の中で、夜中に驢が画から抜け出して走り回ったり、「地獄変相図」では、これを見た人々が続々と生業替えをするなど、その真実味をおびた迫真の表現力には、必ず精細な運筆が必要になる。『歴代名画記』が指摘しているように「極めて周密」な画風をもつ細画も彼は描いていた。
 また、いわゆる「疏体」と呼ばれる画風も呉道子にはあり、
 「走るように奇異で、気韻は雄壮で*素を容れず、筆跡は磊落で、ついに意を牆壁にほしいままにした」(歴代名画記)
といわれる異なった画風が両立して、始めて水墨画の迫真性が生まれる。
 また、人物を描けば、
 「あるいは臂から描き起こし、あるいは足から先に描き起こす」
 また、
 「筆わずかに一、二のみであるが、形はすでに応じており、離披たる点画は、時に欠落を見るが、意はあまねく行き渡っている」(歴代名画記)
などの言葉は、余裕のある画家が作画で試みる遊びであり、減筆の法は、作品の抽象性につながっている。
 また、「筆を立てて運筆した」とする説は、いわゆる「懸腕直筆」の没骨画法を説明していると思われる。およそ現存している水墨の名画は、「懸腕直筆の筆法」を必須とした作品であるという現実がある。名作には不可欠の運筆法なのだ。
 そして、呉道子の描く人物は風を受けているようだとする記述は、画家としての技量が高みに到って始めて進入できる画境の世界である。
 また、一日で嘉陵江300里の山水を大画面に描き上げた筆法とは、大胆な抽象性を加味した水墨の運筆でなければ不可能なことであろう。
 そして、大勢の観客を前にした制作の情景は、まさに水墨に特有なパホーマンスの世界である。
 以上のことから憶測すれば、呉道子の絵画は、現在の水墨画が持つあらゆる傾向、つまり抽象、アクション・ペインティング、減筆画法、細密画法、南画、北画、文人画などの水墨画を含めてあらゆる水墨画が派生する根幹の絵画であったと考えられよう。
 このことから、すべての水墨画の祖に呉道子を当てることは可能だと思っている。まさに、画神、もしくは画聖にふさわしい、歴史上唯一の突出した大画家であったと考えられるのだ。
 見方によっては、絵画の世界にいきなり呉道子というオールマイティで完璧な画神が突然現れて、絵画、それも水墨画という特殊な絵画を完成させてしまった、とも考えられる。
 進化論とは逆の現象がおきていたのかも知れない。我々は呉道子のあと、長い年月をかけて順序はバラバラであるが、水墨画の歴史を作ってきたのではないだろうか?それはあたかも進化論で説明できるような、発展の過程と技術の変遷を実践してきたようにも思う。
 私は、呉道子を「画神」ではなく「画聖」と呼ぶことに賛成する。
 三国南北朝の時期に「書聖」王義之が現れ、唐の時期に「詩聖」李白が現れた。そして唐代に「画聖」呉道子が現れたのである。
 『中国文化史知識叢書・巻22・中国古代絵画』が、呉道子を画神と呼ばず、画聖と呼んだことは正しい選択だと思う。そして私は、画聖呉道子を新たに水墨画の祖と呼ぶべきだと思う。
 つまり、画聖呉道子。水墨の祖は呉道子。北画の祖は李思訓。南画の祖は王維。北画の創始者は荊浩、関仝。南画の創始者は董源、巨然。これでいいように思うのだが、碩学諸兄のご意見はいかがであろうか?

(四)
 画聖の称号をもつ呉道子の記述は、南宋から後の時代ではほとんど語られることがない。それはあたかも、意図的に美術史から抹殺してきたようにも思われる。そのようなことがあるのだろうか?
 実は気になる記述が二書にあり、これが画聖抹殺の主要原因と私には思えてならない。
 一つは、『中国文化史知識叢書・巻22・中国古代絵画』に現れた明と清の時代の事例である。二つは、『山水画論』.賢等著作に現れた記述である。
 以下に引用する。
 「明代」
 〈戴進〉(1388〜1462年)
 戴進は、字を文進といい号は静庵といった。浙江省杭州の人。
 幼少の時は家は貧しく、金銀首飾りの工匠をしていた。
 説によれば、ある時、彼は偶然に一家が精魂こめて制作した工芸品を溶解して金を取り出している所を見て、一気に心を改め、絵画に向かうことを決めたという。
 彼は苦学して勉強した。絵画の上に表れた才能は衆をぬきんでて、技芸は衆を超過したが、彼の出身が「低賤」であったことで小人の排斥を受け続け、終生落ちぶれたままに貧困の中で死んだ。
 戴進は全能の画家であり、山水以外にも、神像、人物、走獣、花果、.毛などさまざまなものに精通し、明代前期に最も出色した画家である。
 彼が主に継承したのは、南宋の馬遠、夏圭の伝統であり、気勢は強悍で、風格は奔放であり、浙派の創始者として尊ばれている。

〈仇英〉(1502〜1552年)
 仇英は、字を実父といい号を十洲といった。江蘇省太倉の人。
 仇英は、油漆匠を出身とする画家で、勤勉に学び、苦練に身をおいた画壇の人である。
 後の人は彼を称して「明四家」の一人とした。

〈徐渭〉(1521〜1593)
 徐渭は、字を文長といい号を天池といった。晩年は青藤道人と号した。山陰(今の浙江省紹興)の人。
 彼の出身は没落した官僚の家庭であり、幼いときから人よりさとく才思はあったが、8回の郷試に受からず、功名の志を得ることができなかった。
 彼は一度精神が失常し、何度も自殺未遂をおこない、後に妻子を誤って殺して入獄した。出獄後はすでに53歳であった。
 彼は人生の苦難と世情の炎涼にあき、大江(揚子江)の南北に遊び、高歌狂飲し、放浪して、俗的な情懐に背を向けて詩画の中に心を寄せた。
 晩年は、彼は貧しく病も加わり、書画を売って生活したが、権貴を蔑視して「忍饑月下独徘徊」(飢えを忍んで月下に独り徘徊する)という状態であった。最後は貧困のなかで倒れ、鬱々として死んだ。
 徐渭は、多方面の芸術的才能があり、詩、書、画、文などに精通していた。
 彼の良いところは、前人の経験を広範に学習した基礎の上に、成法に拘泥せず、大胆に創造し、大写意の溌墨画法を発展させ、水墨大写意花卉を創造した傑出した大家である。
 彼が創造した大写意画法は、後代の画壇に大きな影響を与えた。この種の大写意画風は、今に至るも衰えていない。

(続く)

水墨画考indxへ
topページへ