水墨画考10  畑佐 祝融(日本文人画府理事長・合同水墨議長)
抹殺された画聖呉道子 

 「清代」
〈金農〉(1687〜1764年)
 金農は、字を寿門といい号を冬心といった。浙江省仁和(杭州)の人。
 金農は、博学多才で詩詞に長じ、書法にくわしく、字形方扁の書を創造し、金石の味をもった隷書体を書き、当時すでに名声があった。
 記述によれば、金農は遊歴を好み長江(揚子江)の南北から名山大川に至ったが、彼はわざと任官せず、文人が集まっていた揚州で、創新の精神をもった多くの画家と交友を結んだ。52歳以後は絵画の創作に従事した。彼の深厚な書法の底力と高い文学修養から生まれる作品は非凡であり、自ら一家を成した。人は金農を「揚州八怪」の一人と呼んでいる。
 金農は古人の画法を模倣することに反対し、自己の心情の実感を書画に表現することを提唱し、大胆に新しい表現方法を創造した。古画の模倣と泥古の気風が濃厚な当時の社会にあって、彼のこのような革新の精神に富んだ芸術主張と芸術創作は、人の理解を得ることができず、かえって「怪人」と見られた。
 金農は常に書画の題をかりて、時局の弊害を写したため、牢に入れられた。彼の一生は不遇であり、常に寺廟中の庵院に身を寄せて居住し、画を売る以外には骨董や経典の抄写を売り、彩燈を描き硯石を刻すなどして生活を維持したが、貧窮の中で老衰して死んだ。

〈鄭燮〉(1693〜1765年)
 鄭燮は、字を克柔といい号を板橋といった。江蘇省興化の人。出身は没落した士大夫家庭であった。筆墨の世界では鄭板橋の名で通っている。
 彼は3歳のとき母が亡くなり、幼いころの家は貧寒であった。しかし聡明な性質で文章を作ることがうまかった。若いころ生活が切迫したことから、蒙館を開いて書を教える先生となり、揚州で画を売って生活のおぎないとした。40歳のとき考試で挙人となり、44歳で進士となり、49歳前後で山東の範県や 県の知県に任じられた。
 在任の期間に、彼は「志を得て民に択を加える」という思想を抱き、民情を身体で察し、悪をこらしめ善を賞した。飢饉の年に遇い、彼は民のために命を請い、倉庫を開いて糧を分け与え、深く人民から慕われた。ただし、彼の所業は権貴な人々から反感を買い、それがもとで無実の罪名で告訴された。
 鄭燮は、眼に官界の暗黒と腐敗を見て、1753年に憤然として官を辞して揚州に帰り、画を売って生活した。
 ここに、彼の心に秘めた芸術創作が始まり、心中の憂怨を筆端に寄せたのである。彼の詩詞は民間の疾苦を多く題材とし、文は質樸であり、やさしくわかりやすいもので、常に活発で冗談の趣きを帯びていた。
 彼の書法は巧妙で、隷書体の扁、楷書体の方、行書体の痩長、などを一つの炉に入れて溶かしたようで、「六分半書」を創造し、秀潤多姿であった。
 絵画方面では、彼は自然の観察を主張し、表現対象を師として、古人の画法を死守することに反対した。彼は「揚州八怪」の一人と称されている。
 鄭燮が最も好んだのは画竹である。宋代以後、文人芸術家の多くは竹を描き自らを竹に比べた。元、明以後は、画竹の名家の出現は止まることなく、鄭燮は画竹の大家と称されている。
 鄭燮の晩年は生活が貧窮し、最後は画友の李鮮の家中に身を寄せて1765年に世を去った。
 

  上述した五名の画家のうち、戴進、仇英の二人は出身が工人であり、その身分の低さから生前は辛酸と貧困の中で苦しみ続けた。
 徐渭は、もとは知識階級の出身であるが科挙の試験に落ちつづけ、庶民階級の中に埋没して貧困の中で死んだ。
 金農は知識人であるが、社会を批判し、革新すぎた言動から知識人階級を敵に回し、貧困の中で死んだ。
 鄭燮は、支配者階層の人であったが庶民の側に立ったことで知識階級から追い出され、貧困の中で死んだ。
 封建時代の中国には、二種類の階級しか存在しない。庶民と士大夫階級であり、文盲と知識人階級であり、庶民と支配者階級である。
 陳舜臣は、著書のなかで次のようにいう。
 「中国封建時代の文盲率は、いつの時代でも5%程度の知識人と95%程度の文 盲の庶民とに分けられる」
儒教的価値観は、知識人、つまり支配者階級には必須であるが、庶民には要求されず、儒教の価値観を適用することもなかった。それは、庶民は異なる人種として扱われてきたということである。
 また美術品、つまり絵画の理解者と購入者と評価を下すのは、いつの時代も支配者階級であり、庶民には購買の能力も評価の能力もなかった。身分が低いというだけで、絵画の価値が認められなかったり、支配者階級を批判したことで、絵画の価値が認められなかったりしている。
 逆にいえば、身分が高いというだけで、その絵画は実力以上に価値をもつことが普通であった。
 前述した五人の歴史上における絵画の評価は、死後に出されたもので、生前のものではない。画論の伝世において、工人の言は記述されないと言われている。『山水画論』の中で.賢等は次のようにいう。  
 「(工人の口訣は)一般の文人学士が軽視するところであり、さらに階級社会、 それも封建社会の中では、工人は軽視されており、労働人民の自己の口訣は、流 伝の方法がなかった」
知識人は、身分の低い者の言動を記録することはなかったのである。これは、身分の低い者は、知識人からは人として扱われなかった、ということである。
 呉道子の出生における身分は低く、また呉道子が知識人としての素養を身につけていたという記録がないため、後世の知識人は同類とは見なかったのである。彼らは、画聖という高い評価を与えることに抵抗を感じたのだと思う。
 このことが、時が経過すればその分、呉道子の名が消えていった理由だと思う。
 呉道子の絵画の実物が世に残っていた時代は、そのすぐれた作品の存在感によって評価が消えることはなかったが、実物がなくなった南宋以降は、呉道子は知識階級でないという理由から抹殺されてきたのだと思う。
 封建時代の悪習と価値観が、呉道子を記録から抹殺したのだと思う。
 1993年に刊行された『中国文化史知識叢書・巻22・中国古代絵画』は、過去の悪習による弊害を是正し、呉道子の記述を他の画家と比較して突出して大量に紹介し、「画聖」としての再評価をおこなった。さらに、戴進、仇英の記述では、身分の低さを理由として、社会が評価しなかった事を明らかにした。これは勇気ある論述であり、中国美術史上記念すべき名著と思う。
 この十年後、2003年に台湾で出版された『中華文明史話叢書』全60巻の中の『絵画史話』では、中国知識人にとって都合の悪い部分の記述はすべて隠され、私がここで論述した内容を証明するものは、なにも記述されていない。


 筆法・墨法一覧
〈筆者注〉
 新しい絵画の創造には、新しい筆法、墨法が必要になる。また新しい画材の出現によって、新しい表現技法が生まれる。
 水墨画は、たった四つの画材=筆墨硯紙があれば描ける絵画だが、画材がもつ特性と、画材の相乗効果による影響は、作品の表現理論や技法や品質に、巨大な影響を与えてきた。
 美術史に刻まれた絵画の変遷は、画材の特性の変遷史でもあったといえよう。むろん、構想や着想や思想性という、作者個人の独創性に起因した筆法や墨法も多くある。そしてこれらの技法は、多くは後世の史家によって名称が付けられ、区分されてきた。
 水墨文化をもつ各国では、技法の名称は共通していることが多い。しかし現在のわれわれは、自分が使用している筆法・墨法・画法などの正式名称を、知っているであろうか?(続く)

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