水墨画考11  畑佐 祝融(日本文人画府理事長・合同水墨議長)
筆法・墨法一覧 

 ここで紹介する多くの筆法・墨法に照らし合わせれば、われわれの技法の正式名称が見えてくるように思う。
 ここでは、画材の時代的特徴も合わせて記述する。
 記述に使用した文献は、『中国文化史知識叢書・巻22・中国古代絵画』徐改著作・1993年・台湾商務印書館股彬有限公司刊、を中心とし、内容を一部組み替えて引用した。また、『中華文明史話叢書・巻11・造紙史話、巻13・文房四宝史話、巻15・絵画史話』共に2003年・台湾国家出版社刊、も一部引用し、『山水画論』龍賢等著作・1975年・台湾芸術図書公司刊、も一部引用した。
 わたしの私的文章となる部分は、それを明記した。


漢 代
 壁画や帛画では、淡墨で描き起こしたあと、平塗りで設色したり、直接設色したあと、墨線で勾勒している。まだ筆法と呼べるものは存在していない。
 〈墨〉
 東漢(日本では後漢)のときに膠と煤による製墨法ができて、墨は墨錠の形になった。これによって、墨を硯で擦り降ろす方法が出現した。
 それまでは、漆もしくは漆と煤煙などを混ぜたもので文字が書かれることが普通であり、これを「墨書」と呼んでいたのである。戦国時代の「墨車」とは漆が塗られた車のことで、煤煙が塗られていた訳ではない。
 魏の曹操が『銅雀台』の下に貯め込んだ「石墨」は、石炭であった事がわかっている。石炭も墨と呼ばれていたのだ。
 〈紙〉
 西漢(日本では前漢)のときに麻紙が作られ、東漢のときに皮紙(楮紙)が出現した。
南北朝
 顧鎧之(345〜406年)は、中国史上最初の、絵画を職業とした文人画家といわれる。
 展子虔(おおむね550〜604年の人)は、歴史上最も早い時期の山水画を描いた。青緑山水画と呼ばれる、勾勒無皴で極彩色の画法であった。
 〈紙〉
 書画用紙は、おおむね加工紙となっている。
 〔筆者注〕…南北朝時代の東晋の桓玄(369〜404年)は、政令によって役所で使用していた木簡や竹簡を、すべて紙使用に切り替えた。国家にとって重要な文章や皇族や権力者が使用したのは、帛(絹本)や紙であったと考えられるが、普通は木簡や竹簡に文字を書いていたのである。
 従ってこれより以後は、簡読の文章は社会上消失したといわれる。
 紙使用と同時に「簪筆」(頭に挿した短い筆、役人は常に個人で筆を持ち歩いて いたため)も禁止された。これによって筆管は現在と同じような長さになり、ま た筆管の底部が平らになったのである。簪筆の底はカンザシのように尖っていた。


唐 代
 唐代は勾勒画法(輪郭線で物の形を写してから設色などをする方法)が一般的な筆法であった。
 西域から、凸凹暈染法がもたらされた。
 唐代は、暈染法、焦墨白画法、破墨法、破筆法、渇筆法などを使って絵画が描かれた。唐初には、飛白筆法が流行し、飛白の書が盛んであった。
 殷仲容(唐代初期)は、墨筆点染法を創出した。彼の描く花卉画は、墨を巧妙に使って点染し、五彩を兼ねるような芸術効果をだした。
 李思訓(651〜716年) は、青緑山水(あるいは金碧山水ともいう)を描いた。細密画法を使った。
 呉道子(685〜760年) は、懸腕直筆法、水墨画、白描画、簡体画、疏体画、などを描き、柳葉描、棗核描を創出した。呉道子は風を描くことができた。また、突出した技量により「百代の画聖」と賞賛された。
 王洽(生没年不詳)は、山水画で溌墨法を創出した。
 〈墨〉
 唐代は、易墨法によって、易水流域では高級松煙墨が製造された。記述によれば、朝廷は筆、墨、紙などの高級品の製造に力を入れていた。これには、周辺諸国に文明国としての力量を見せる道具として使う意味も含まれていたのである。
 易墨は、朝廷専用の高級品も作ったことで発展していった。
 〈紙〉
 紙は、ほとんどが加工紙であった。加工紙の劣化は早いことから、唐代から前の時代で紙に描かれた絵画作品は、ほとんど遺されていない。


五 代
 五代の南唐と西蜀では、中国史上で最も早い宮廷画院が開かれた。
 五代の山水画は南北の両大流派と両種の画風が正式に確立し、筆法、墨法のほとんどが具備した。
 花鳥画では、黄筌父子が細密な双鈎填色画法を使った。
山水画では、北画と南画が生まれた。北画の創始者は、荊浩と関仝である。関仝は全景式山水画を描いた。南画の創始者は、董源と巨然である。董源は披麻皴を創出し、巨然は破筆焦墨の点苔を使った。
 荊浩(生没年不詳)は、理論書の『筆法記』を著作した。北画の創始者となる。
 〔筆者注〕…「水墨暈章」という言葉や、水墨や気韻という熟語を創出し、水墨画の理論で後の世に重大な影響を与えた。
 関仝(生没年不詳)の師は荊浩で、ともに北画の創始者となる。関仝は全景式構図法をとった。
 董源(?〜962年)は、披麻皴を創出し、点苔や点簇を使用した。南画の創始者となる。
 巨然(生没年不詳)の師は董源で、ともに南画の創始者となる。長い披麻皴を使い、破筆焦墨で点苔を打った。
 〈新安三宝〉
 澄心堂紙、李廷珪墨、龍尾石硯(歙州硯)は、「新安の三宝」と呼ばれたすぐれた画材である。南唐の李後主が作った画院で使用されていた。この画院には、寵愛を受けた四大家が自由に出入りしていた。荊浩、関仝、董源、巨然の四家である。彼らは新しい美術運動を起こし、水墨の南北両派が発生したのである。
 〔筆者注〕…澄心堂紙、李廷珪墨、龍尾石硯(歙州硯)は、前例のないすぐれた画材である。
 これらの画材がそろったことで、荊浩、関仝、董源、巨然の出現をうながし、新しい絵画運動をうながし、水墨における、南北両派の創造をうながした、と私は思っている。
 画材が作家を生み、新しい絵画運動を作りだしたと思う。また、南唐の画院で四人が切磋琢磨できる状態がなければ、この時期に、水墨が確立して南北両派が発生することはなかったと思う。
 〈紙〉
 澄心堂紙は、皮紙(楮)で作られた。
 〔筆者注〕…この澄心堂紙は、中国史上最初の名紙といわれる。宣州で作られており、後の宣紙の発展に遠因した。
 〈墨〉
 墨では、李廷珪墨が作られた。李廷珪は「対膠法」を創造した。それは、従来の煙に混和する膠量が等量であったのを半分に改め、同時に何回かに分けて混和する技術を開発した。そして、防腐、防虫、長期保存の目的で、12種の草薬を加えた。
 また、墨模(木型)の使用を開始した。この墨模を使った圧縮によって、始めて密度の高い引き締まった墨錠を作ることに成功した。これによって長期間不変で発色が安定した墨錠が可能になった。
 〔筆者注〕…固型墨製造で墨模を使う方法は、墨文化をもつ各国では現在まで変わることなく続いている。名墨を製造するためには、墨模使用が必須の条件となっている。


北 宋
 北宋前期の李成、関仝、范寛の三家は、みな北方の山川から題材を選び、その構図は平遠寒林あるいは、全景式の大山大川であった。
 范寛(生没年不詳)の山水画は、勢壮雄強で、運筆は短促均.であった。雨点皴を使用した。その筆法は虚出が自在で頓挫して力があった。空気遠近法を使った。短い條子皴と点簇、搶筆の運筆法を使った。
(続く)

水墨画考indxへ
topページへ