「捨」の終焉


書道芸術院顧問
春洋会会長

恩地 春洋
書展


 「自分を捨てないと人はついてこない」あるとき、恩地春洋がふと漏らした言葉だという。これを聞いたとき、恩地春洋ともあろう大作家が日夜東奔西走、国内外を駆け巡ってきた理由の一端が少し明らかになったような気もした。「捨」を書き続けて30年。この間、恩地春洋は書道界のために、そして書道界の未来のために走り続けてきたのである。その両者の足跡は作品u捨vの変容となり、書道界発展の道筋を築くことになる。
 恩地春洋は1929年高知県春野町生まれ。今年87歳を迎える。高知師範で師川?梅村( 後の白雲) に邂逅。1951年、師に従って大阪へ転居。以来、大阪を本拠地として書活動を展開。1971年、梅村師が突如書壇離反し、放浪の旅へと。残された門弟たちは集団指導体制を余儀なくされ、玄遠社を設立。恩地会長の誕生となった。
 1984年、書壇は揺れた。毎日展からの伝統系会派の脱会騒動だ。毎日に残った恩地らは再建事業に奔走することになる。この辺りから、恩地にとっての「捨」が行動の指針となり、そしてなくてはならない作品モチーフへとつながっていくことになる。大所帯の関西伝統系の退会により、毎日関西展の立て直しは急務であった。未来の書道文化のために高校書道教育の活性化も必然であった。「国際高校生選抜書展」を「書の甲子園」として定着させたのも恩地の力が大きい。土佐のいごっそうと大きな包容力を兼ね備えた恩地の人間力は、やがて毎日書道会理事、書道芸術院理事長などの書壇要職と向き合うことになる。一方、師への思いも尽きることはない。異端の名家川崎白雲を後世に残すため、高知、大阪、東京で、とき時の展覧会を開催してきた。書のため、人のために労力を厭わず。そこに流れる「捨」のエスプリは、作品「捨」を育てていったとも言える。
 恩地春洋社中「春洋会」の夏の主戦場であった文藝春秋画廊閉廊にあたり、春洋会主催最後の展観になった今展。一階は会員小品作、二階に「捨」の代表作13点と「心」「翔」「自詠句」などを合わせた18点が並んだ。
 掲載は出品作中空間が一番広く、筆鋒の働きによる線の明るさが突出した作。また一番多忙な時期を経た直後の開放感も同居している。( 篠原)

      

 

  日韓二人展  2010年