アトリエ訪問

新連載 第15回



アトリエ訪問 新連載 第15回
洋画家 松野 行さん
 ― “赤”にこめる思慮万感―
訪問者:中野 中


 最寄りの矢板駅(栃木県)から車で10分、別荘地として開発された高台のアトリエから、関東平野の北限を画す那須の山並みが北に、日光連山が西に望まれる。
 長じて絵を描いている人々は、ほとんど小さいころから絵が得意で、ほめられて、…ということだが、松野は小2で油絵を始め、パレットナイフだけで厚塗りをする先生に教わった。厚塗りは今につながっている。
 小6で日展を見、堀田清治の絵に感動し、高1から通った美大系研究所では、浪人中の先輩の中で講評会で絶賛され、進学せずとも伍していける自信を持った。その頃の自画像作品は確かにそうで、鼻っ柱の強そうな風貌にも見える。“色の響きあいを大切に”との信念があった。
 結局進学せず、勤めながら20歳で白日展に初出品初入選を果たし、次いで当時、日展より難しいと言われた日洋展に入選。二足のわらじはダメということで、“生涯を託すならより厳しいところで”とちゅうちょなく日洋展をとったのも強気の松野らしい。日展初入選は25歳、当時の最年少だったようだ。
 日野耕之祐との33年間は、松野さん自身が一冊本に書き下ろすべきであろう。
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アトリエにて

 松野のインド通いが年中行事になったのは、いつからであろう。
 図版掲出の〈流砂の道〉(2008年)は“松野の赤”のごく初期であるが、インドが舞台になるのは少なくともこれ以降になる。
 この作品、振分けした重荷を背に黙々と歩くロバの傍らをトラックが追い抜いていく。それを画面左に寄せ、あとは赤に覆われている。大胆な構成と赤、画家のターニングポイントとなる刮目すべき一点になった。
 この後、間もなく舞台はインドに移り、パンデミックの直前まで10余年のインド通いは始まる。謂わば嵌は まったのだ。そのため(ばかりではないだろうが)早期退職までしてしまった。

渇 き 2022年(第9回日展) 130F(油彩)

 松野さんは決断を迫られた時は、敢えて厳しく難儀なほうへ自分を追い込む。背水の陣へ自身を置く。そういう生き方をする人なのだ。
 何を好んでか、インドへはきまって真夏のときに出かける。“3日もするとつらくて耐えられなくなるが、題材を求めてふらふらしながら裏通りのバザールを歩きまわる。そんな思いをしても、酷暑のインドが懐かしくなる”というから、もう中毒状況である。
 “松野の赤”は、“灼熱の陽光と過酷な風土の象徴”ではあるのだが、この赤へのこだわりには意固地なまでの強い意図があるのだ。その強さがいっそう魅力的な色になっている。それを〈赤色エレジー〉と呼びたい。




流砂の道 2008年(第40回日展) 100F(油彩)

 

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 1958年宇都宮市生。日展特選。上野の森大賞展優秀賞。公募団体ベストセレクション美術2012出品。現在、日展会員、日洋会理事、栃木県新作家集団会員。