折々の眼(15) 美術館が遠くなる ワシオ・トシヒコ(美術評論家)
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一口に日本の美術評論家といっても、さまざまだ。大学や美術館に勤務する、いわゆる
″サラリーマン評論家″がもっとも多く、業界で幅を利かせている。いちおう私も二つの大学の講師だが、非常勤なので月々サラリーをもらっているわけでない。したがって“サラリーマン評論家”とはいえない。
評論家などというと、どことなく偉そうだ。事実、偉ぶっている者もいる。だが私のようなフリーランサーの場合、実態は
″美術労務者″に限りなく近い。自転車を何とか元気に漕いでいられるうちはまぁまぁでも、明日の生活の保証など、何一つあるわけでない。立って漕ぐのに疲れて路傍に座り込んでしまったら、そのまま路上生活者にもなりかねない危うさなのである。
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それでもこれまでは、いくらか恵まれていた。美評連(美術評論家連盟)の会員証や美術館から送られてくる優待券(入館証)があったからである。それが年々、会員証で入れる美術館が絞られてきたばかりか、ことしの年度末から、東京都美術館のように優待券を発行しないところが増えている。美評連の会員仲間に訊いたら、事情はやはり同じらしい。想像ではおそらく、無料入館者リストの見直しや整理が始まったのだろう。“文化立国”をめざすはずだった行政や民間のビジョンは、いったいどこへ消え去ろうとしているのか。
確かに無料入館者が、評論家以外にどれだけいるのか見当がつかない。効率と収益を優先させなければならない運営側としては、できるだけ無料入館者の存在を認めたくないのがホンネだろう。しかし、専門職と一般
の美術愛好者たちを同等と見なすのはどうだろう。 ″悪しき平等主義″ではないのか。
美術評論家は“眼の先兵” であり、業界のPRマンも兼ねている。PRマンから限られた特権を奪ってしまっては、口やペンによる展覧会の情報量 がぐっと減るに違いない。PRなくして、美術界の再生など望むべくもないだろう。観客の量 も大切だが、質もまた欠かせない。本来、質が量を呼び寄せてくるのではないだろうか。質を切っては、量 の将来も危うくなる。いや、美術界全体の崩壊につながらないとも限らないのではないか。 |
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