続・足裏庵日記(36) ― 新美術館の功罪― 中野 中 (美術評論家)
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ことしの成人式は1月14日、元気が良くて、テレビに映し出される若者たちも明るく屈たくのない顔をしていた。昨年のような騒動もなく、どこも少々のことはあったにせよ恙無く終えたようだ。入場前にアルコールのチェックをしたところがあったという報道も、他にさしたる事件がなかった故であろう。些か行き過ぎで賛成は出来ないが。
自分のころは、東京から夜行列車で帰省、眠い眼をこすりながら参加した。一張羅の学生服を着して、冬の寒さの中でオゴソカに行われたのではなかったろうか。式典後は同級会で久々の出会いを喜びあったはずだが記憶にない。40余年も前のことで、まさに往事茫々である。
時は流れて、昨今の成人式の 若者は華やかだ。 女性は大半が和装の晴れ着に身をつつみ、首には白いショールである。男性は羽織袴の和装姿が散見する故に目立つ程度で、ほとんどが黒か紺のスーツのようだ。
経済格差などどこ吹く風、親が出すのか、当の本人が財布の底をはたくのか、みんながみんな立派なものである。が、皆一様だというのが気にかかる。一人ひとりの識別 が無い。いわば流行に乗っている、というより流されて埋もれてしまっているように思われる。 そのことに彼らはむしろ肯定的であり、他者と同化することに積極的なのかも知れない。成人式に限らない。私などの理解の遠く及ばない流行現象など、すべてそうであって、みんなと同じであろうとする。自分たちと違うと感じればその者たちを拒否、排除する。 |
逆になれば自分が輪の中から追い出される。だから附和雷同的に、右に流れれば右へ、左に吹かれれば左へ行ってしまう。はじめは疑問に感じていても、流されているうちに何の疑問もなくなり、自分さえ失くなってしまう。 若者だけではない、いい大人だって同じではないか。他人や多数相手に自分の考えや意見をちゃんと主張できているか。よほどの頑固親父でない限り、ましてサラリーマンの身であれば、ましてこの不況の世なれば、すべて権威や多数派にはご無理ごもっともとならざるを得ない。
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