今月の課題 「日本の文化とは(4)」 編集主幹 松原 清
ところで、「美術」という用語を私達は何の疑問もなく使っているが、ウィキペディアを参照すると、この用語が生まれたのは明治6年、日本政府がウィーン万博に参加する時に出品分類についてドイツ語の訳語として採用したことによる。分類第二十二区に「美術(西洋ニテ音楽、画学、像ヲ作ル術、詩学等ヲ美術ト云フ)」と記されおり、音楽や詩も含まれていた。この時まで日本には「美術」という言葉はなかったのである。「美術」が視覚芸術に限定した概念となり、詩、音楽、演劇などに「芸術」が適用されるのは明治10年以降となる。同じように「日本画」という用語もなかった。フェノロサが明治15年に龍池会で行った講演『美術真説』で使った ジャパニーズ・ペインティング の翻訳が「日本画」という言葉の初出である。現在、日本画の定義が曖昧になっているが、当時は、⑴写真のような写実を追わない。⑵陰影が無い。⑶鉤勒(輪郭線)がある。⑷色調が濃厚でない。⑸表現が簡潔である。が当初の日本画の定義であった。
面白いことに、フェノロサが最初に使った「日本画」という言葉は、西洋から渡来した油彩画に対して、それまでに日本にあった図画全般を単に指すものではなく、中国や朝鮮半島に由来しながらも、日本の中で熟成、独自に発展した様式について言っているものとされる。しかし、これに発して岡倉らが育てて現在に至る日本画はそれとも異り、洋画の対抗勢力としてその後に発達したものであるとされている。
話しを少し戻そう。明治に洋画が輸入(日本の画家がヨーロッパに留学して学び帰った)される前、万博で日本から出品した陶器の包み紙として使用された浮世絵版画が当地の画家(特に印象派のモネ、ゴッホ、ゴーギャンなど)に鮮烈なインパクトを与え、ジャポニスムの一大ブームを引き起こしたことは周知のこと。それが、後のアールヌーボーの起爆剤となったことも日本の美術を語る上で極めて重要な出来事であると思われる。
新たなものを生みだすには、先ず古いものを学ばなければならない。「温故知新」は発達、発展の常道として定着しているといえる。言い換えれば、ある国の文化は、その歴史の流れのなかに存在しているのであり、他国(主に隣国)との相互影響を与え、与えられながら独自の思考思想で積み重ねてきたもので、全く一国で成しえてきたものではない。日本に於ても然りである。平安時代のかな発明が日本的思考の発端となったと思われるが、鎌倉以降も日本人は実に異文化を日本的に吸収してきたのである。
太平洋戦争は多くの不幸を生んだが、文化的不幸は占領政策で日本文化の徹底的な思想破壊がなされたことである。「平等教育」が生んだ不平等。「抽象でなければ芸術にあらず」も実は仕掛けられたことかもしれない。慰安婦問題にも不穏な影がある。国を滅ぼすにはその国の文化・思想を破壊すれば良いのだ。そうならない為にも個々の人間性を高めねばなるまい。 (完)
全日本美術『今月の課題』の
1996~2005年を単行本に
全日本美術編集主幹 松原清 著
A5版 272頁 定価2000円