第51回日本南画院展より

―南画の明日へ、余白にこめる気―

理事長

町田 泰宣

 

 眼路の限り、広渺無辺の奇景岩峰が連なる。この黄山の、どこを切りとり、いかに構成するか。雲霧満ちる奇岩の一隅に佇立し、画家はひたすら眺望に目を凝らす。ひたすらに眺めて時を過ごす。思い出したようにスケッチブックに筆を走らせ、また佇む。岩峰は不動のままに、動くものは雲霧ばかり。刻ばかりが流れ、気が満ちて沸点に達しようとした瞬間、とそこに数羽の鳥が舞い込んで、眼前を過り、雲霧のなかに消えていった。瞬間、構想が啓示のように浮かび、この作品が生まれた。…と勝手に思いを遊ばせてみたが…。
 右手には子連れのような岩峰を、左手少し奥には家族一団となったような岩峰群を配し、いずれも画面をはみ出し両端への広がりをみせ、両者の奥にもう一つの岩峰を配して、崩れ三角構図とし、峰々の間には雲霧を手前から奥へ厚薄深浅をもって漂わせた。
 黒々とした岩峰には金泥を刷き、岩峰の縦、雲霧の横の単純構成に、崩れ三角と共にゆるやかな安定感を添えた。
 注目すべきは画面奥の処理であろう。遠く霞む峰々はしだいに淡墨となして雲霧か峰かの間隙を曖昧にしながら一転、空を濃淡に刷いた。山間の雲霧を描いて余白の意味を付与しながら、最後の最後で余白を逆転してしまったのだ。この手法はかつて泰宣は試みてきているのだが、ここでは何の違和感も作為感もなく、ごくごく自然体となっている。もちろんそうなるべく手順は踏んでいるのだが、この作家ならではの創意ある描写であろう。
 鳥の群は、では何を意味するのか。描写世界のスケール感の演出と相俟って、視点の動線を画面の奥へと向かわせている。そして絶景の向こうの黒の余白にこそこれからの南画の行く先を暗示しているのではなかろうか。黄山を描いて「気」としたところにも、昨年の屏風制作をみずからをはじめ課した姿勢が感じられるし、また南画における余白が詩情や余韻の醸成、また広大な時空間の暗示だけでなく、気(精神)の漲りの意味をも示しているのではないか。 (中野)

 

 

 

気(黄山)