第49回日本南画院展より
〈余白〉の美
日本南画院理事長
町田 泰宣
「雅美(京都御所・建春門)」
なぬ!? である。
白玉の夜露にぬれてキラリと光る白刃をつきつけられたような衝撃と緊張を強いられる。それほど大胆にして緻密かつ鋭い一作であろう。
京都御所の建春門である。むら雲の切れ目から満月があらわれた一瞬、の感動である。筆線だけで描かれた門、金地の上に刷くように重ねられた墨の面、そして月。たて画面のほぼ3分の2は何も描かれていない。描かれていない部分は門前に広がる庭である。庭に敷きつめられた玉砂利が、雲間から顔を出した月の明かりを浴びて白々と照り返った、その一瞬の様を描いているのだが、描きたいところは何も描いていない。何も描かない意味を表現するために門を描き、むら雲に月を描く。これが水墨画にいう〈余白〉の美である。
それにしてもこれほど正面から堂々と〈余白〉をつきつけてくる絵も珍しい。そしてこの〈余白〉ほどむずかしい(表現においても、また理解においても)ものもない。
この数年の町田先生の作品を見るに、水墨画の団体の理事長として、また一人の水墨画家として危機意識があったのだろう、だからこそ連年、意欲的かつ実験的作品を発表し、仲間にも自身にも今日の水墨画のありようへの研鑽と意識を鼓舞してきたのだ。
余白は古来、遍在する〈気〉の表象とみなされてきた。あるいは詩情や余韻を醸成する有効な手段ともなり、さらに余白によって広大な空間暗示する手法は日本の狩野派にも継承される一方、表現の抑制の意義をももった。日本の平安―鎌倉時代の屏風絵等では空間の拡がりや時間的な推移を情趣的に表現している。
とまれ、余白を余白たらしめるには構図上の吟味が問われるが、この「雅美」をあらためてみるに、画家の意志(モティベイション)の漲りと精神の緊張こそが要鼎であることを示している。
来年、日本南画院展は50周年を迎え、審査員全員が4曲屏風に挑戦するという。水墨画の最も魅力をなす〈余白〉がどう解釈され表現されるか。怖くもあり楽しみでもある。 (中野)
