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篆刻が、「書」の一部門であることを、いま、疑う人はほとんどいないのではないだろうか。春秋戦国時代の古璽以来の歴史は、書史、文字史そのものと言ってもよいのである。秦始皇帝によって官印の制度が改められ、「璽」は皇帝の専用となり、一般
には秦漢以降、「印」と称されるようになるが、その特質が変わったわけではない。昭和戦前の世代にとっては「御名御璽」ということばが懐しいにちがいない。
璽印は当初、無名の技術者によって作られたが、明代に至って軟質の石印材が採用されるようになり、文人の間に篆刻の趣味が一気に広まるのである。そして、詩書画、篆刻は一体のものと考えられるようになった。
ところが、明治期の美術史などを検証していると、篆刻は工芸に行くべきではないか、などという記述があって不思議におもっていた。これに答えてくれたのが、はじめて初世中村蘭台の仕事を見たときであった。印材は中国では歴史的に青銅を主として金銀、玉
石、陶などが使われてきたが、明治期に「木の国」の日本では、木材が盛んに使われたのである。その結果
、伝統の方寸の世界を飛び出して高さが一尺もあるような印が作られるようになった。これは、印として使用するというよりは床の間の置物のようなものであるが、その技法を応用した結果
、茶托や煙草盆、帯鉤、さらには小形の屏風等までが作られるようになったのである。こうなれば、すでに工芸の世界であろう。
二世中村蘭台は、独乙協会中学に学んで家業とは別の道を歩むつもりであったが、初世蘭台が病に倒れるとやむなくそれを継ぐようになる。しかし、さすがに時代は変わって横山大観や川合玉
堂画伯等の印を応需する。同時代人の山田正平もそうであるが、いわゆる ″お習字″的世界とは一線を画す文人的存在であった。
昭和二三年(一九四八)に日展に第五科書が開設されると、篆刻も加えられ一躍、社会的にも脚光を浴びるようになる。そこで、二世蘭台は、かねてライフワークとして構想していた「老子語印五十顆」に着手するのである。印材には中村家の伝統である梅、楠、梨などの硬い木材を選んだ。そして、印面
に文字を刻するほか、鈕にさまざまの彫刻を施して見映えよくすることを考えたのである。
昭和二三年(一九四八)のはじめての日展に発表した『無常心』は、高さが八・五センチ、印面
も三・八×一・八センチの比較的小形のものであったが、鈕には双魚が彫刻されている。側款には、「余未嘗作立体鈕、此印嚆矢也」と刻している。いよいよライフワークをはじめるに当たって、初世以来の中村家の血が騒ぎ出したにちがいない。
鈕そのものは古銅印以来の歴史があり、それ自体は印として何らおかしなことはないが、二世蘭台の仕事は、木材の特質を生かして次第にサイズがエスカレートし、昭和三二年(一九五七)の日展に出品した『長生久視』では、高さが二〇・三センチにもなり、鈕も稚榴が堂々と彫刻された。二世蘭台としては得意満面
のところであるが、これに危機感をもったのが、篆刻の推進者でもあった西川寧らである。このまま放置すれば、工芸や彫刻から異議が出ないとも限らないとおもったのである。その結果
、印材とともに展示されていた篆刻は印影のみの出品となり、印材の刻面を見ることができなくなったのである。
印を朱の印影で見るのは比較的新しく、古印は本来、官位の象徴や封印をする道具として用いられてきたものである。
日展等では篆刻は印影のみの平面の発表となったが、以後も二世蘭台の「老子語印五十顆」のライフワークにかける情熱は変わらず、華やかな鈕をともなった刻印は、昭和四三年(一九六八)の第五十番目の『玄徳』までつづけられる。これは、高さが一八・五センチ、鈕には六角形の唐草文が彫刻されている。七十三歳であった。
ここに採りあげた『和光同塵』は、昭和三五年(一九六〇)の日展に出品され、翌年、篆刻としてはじめて日本芸術院賞を受賞した歴史的な作品である。鈕には榴子が絢爛豪華に彫られ、金色に彩
色されている。 篆刻が印影のみの出品となった事については、それなりの理由があるわけだが、篆刻芸術の文人的趣味性が喪失する一因ともなったのは残念なことである。
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