第8回日展文部科学大臣賞受賞

―京都のかな その本流―


日展会員
日比野博鳳

 第8回日展で、文部科学大臣賞を受賞した日比野博鳳氏の作品をピックアップさせていただいた。
 「鶯の聲ぞ霞にもれてくる 人めともしき春の山里/おのずから来る人あらばもろともに ながめまほしき山桜かな/あだに散る梢の花をながむれば 庭には消えぬ雪ぞつもれる/吉野山ひとむら見ゆる白雲は さき遅れたるさくらなるべし」と西行・山家集より春の歌四首を選文しているが、一首目を小さく押さえて序曲とし、2首、3首目に最高潮に達して徐々にデクレッセントして幅をもたしてスッと終わる。正に交響楽的な流れに構成した作品である。授賞理由も「余白や遠近感、そして全体の調和が見事である。筆が連続しない連綿を"意連"と呼ぶが、これと美しい連綿が見所といえよう。響き合う点画も合わせて、鑑賞してほしい。」とある。
 今回の作品はこれまでと違い、いわゆる水穂のひとつの基調を踏襲した作品といえる。博鳳氏も、「自分の工夫は出来るだけ封印し、五鳳が70代くらいの時に門人に指導していた手本のスタイルを復活した」と述べているが、かつて光鳳氏が大臣賞をとるまでのスタイルもそうした流れをもつ展開であったと記憶する。
 大字展開にも尽力されたし、そこに、京の雅をどう封入するかという命題に光鳳氏は取組んでこられて自分の様式を確立されたといえる。全くの偶然かもしれないが、「実」から「博鳳」の号を用いた年、そして光鳳氏が旭日中綬章を綬章した年の日展最高賞受賞は、博鳳氏のもつ運勢の強さかもしれない。博鳳様式の確立を目指した新たなスタートが始まる。
 さて、博鳳氏の生い立ち、略歴を少し述べたい。
 博鳳(実)氏は昭和35年、京都市で日比野光鳳(尚)氏の長男として生まれた。はじめて筆を持ったのは四歳頃というから、おじいちゃん(五鳳)が日展で大臣賞を受賞し、藝術院賞へ向かう頃と重なる。五鳳氏は子供の指導はしなかったから、もっぱらおばあちゃんが先生となった。が、手本は五鳳氏が用意したという。父光鳳氏が勤めを辞して書家として専念するようになってから、父の書く手本を並べ、乾くと重ねる作業を手伝った。中学時代は全く書に関わらなくなったと聞く。が、府立洛北高校時代に芸術科書道があり、祖父の存在を意識するようになったとも。しかし、同志社大学文学部に入学したにも拘わらず、哲学、倫理学を専攻。卒論はカントの純粋理性批判だった。オーディオに凝って音楽は全ジャンルを聴いた。小説はミステリーにはまったとも。同志社で中学、高校の社会科免許を取得するも、卒業後、仏教大学通信教育学部で書道科の免許を取得したのは氏ならではの思いが奥底にあったからで、昭和60年五鳳氏が逝去すると、本格的に書に関わるようになり、昭和63年日展初入選、平成12年、14年に日展特選受賞。2面プロフィールにある通り大学講師、教授を歴任。その後現在までは周知のとおりである。(松原)

 

 


 

 

 

〈さくら/西行〉71×240cm